さよならは突然に


あれから二週間、俺とディーは順調に交流を深めていき、スッカリ世界から流
されるプールにも慣れてしまった今日この頃。

意気揚々と風呂場に向かう俺に、お袋が衝撃的な言葉を投げかけた。

「あ、明日からお風呂改築するから。一週間銭湯にでも通ってね」

「ハ?!!」

物凄い勢いで振り向いたが、お袋は目も向けずにマニキュアを塗り続ける。

「あんた銭湯も好きでしょ、なんか文句あんの」

「文句っつーか・・・・、いや、何でもねえ」

一瞬ディーの顔が頭をよぎったが、特に何も言わずその場を後にした。ディー
のことをお袋に言うワケにもいかないし、第一言ってどうなるものでもない。


だが少しだけ、俺の心に引っかかるものがある。


あれから何度も俺たちは交互に世界を渡り、その条件となるような二つの法則
を発見した。

一つ目は第三者の介入が無いこと。これは声だけでも駄目らしい。お袋が詰め
替え用リンスを持ってきた時、ディーの女官が着替えを用意しに来た時、どち
らも一瞬で俺たちは強制退去させられていた。

二つ目は限定された発生場所。それはそれぞれが住んでいる場所の風呂場、そ
れも湯船の中だということだ。俺が一人で佐藤んちの風呂に入っても、自宅の
風呂場でシャワーだけを浴びたときも、何事も起きることは無かった。

俺たちは、自宅の浴室で、互いが独りでいるとき、世界を越えるのだ。

それが判ってからは、俺たちは自由に互いを行き来することが出来た。
最初はとんでもねえと思っていた異世界でも、そうと判ればこっちのモンで。
たとえ浴室、湯殿から出ることが出来なくとも、それは中々に上等な入浴タイ
ムだった。



――だが。



新しい浴室で、果たしてこの現象は続くんだろうか。


確信に近い予感を抱きつつ、生ぬるい水中をぐるりと見回して、俺はディーの
待つ水面へと上がった。





「よくきたな、ジン!」


俺が顔を出した途端、満面の笑みを浮かべて近づいてくるディー。随分と子供
らしく表情豊かになって、その分我侭も増えた。もちろん甘やかしなどはしな
いが。

「ジン、今日はそなたに贈りたいものがあるのだ」

「なんだ、また微妙な形状の果物か?それともお前の描いた似顔絵か」

「余は絵はたしなまぬ」

6歳児が贈るモノの定番・保護者の似顔絵かと思ったのだが、ディーは可愛げ
も無く否定して縁へと向かう。それを目で追っていると、近くに置かれていた
白い布を持って戻ってきた。

「ハンカチーフなんぞ貰っても持ち歩かんが」

「そのようなものは知らぬ。余がやりたいのはこれだ」

ディーがそっと布の端をつまんで持ち上げる。それを上から覗き込んで、俺の
眉は訝しげにひそめられた。

「・・・・・・ピアス・・・?」

ディーの小さな手の平の上で布に包まれていたのは、細い金の留め金で作られ
た小さな赤い石のピアスだった。多面状にカットされた雫型の赤い宝石が、キ
ラリと浴室の明かりを反射している。

「――何でコレを俺に?」

確かにシンプルなデザインだし石も小さなモノだが、どう見ても女物にしか見
えない。これは俺に対する何がしかの挑戦と受け取っても構わないのだろうか。

ジロリと見下ろすと、ディーは何故か眩しそうな顔で俺の顔を見つめていた。

「ジンは飾り穴をあけているだろう? その銀細工もよく似合ってはいるが、ジ
 ンの黒い髪と瞳、白い肌には、赤水晶のほうがよく映えるとおもったのだ」

「そう言われてもな・・・。コレ、女物じゃねえか」

「うむ。余の母上の形見だ」

「―――ハァ?」

摘み上げたピアスを眺め回していると、ディーの口から衝撃的な由来が飛び出
した。思わず取り落としそうになったがなんとか堪える。

「・・・お前、何んなモン人にやってんだよ!」

「った!!」

この親不孝者!と平手で頭を叩いたが、ディーはめげずに俺の耳へと手を伸ば
した。

「大切なものだからこそジンに身に着けてほしいのではないか!!」

必死な顔でつま先立っているようだが、俺の耳までは到底届かない。ぴょんぴ
ょん跳ねる体を片手で押さえつけ、俺は眉間に皺を寄せながらディーの顔を見
下ろした。

「何で」

あきらかに乗り気じゃない俺を見て、ディーの瞳が微かに揺れる。そして悲し
げな顔で俯くと、か細い声で呟いた。

「・・・・それにふさわしいのはジンだけだ。ジンが身に着けてくれねばいやだ」

コイツはいつの間に泣き落としなどと言う高度なワザを覚えたのか。

「絶対に、ジンでなければいやだ・・・」

俺はこのままトンズラすることも考えたが、その様子を見ていて実行に移す気
力が根こそぎ失せた。こいつ、俺がガキに弱いということに感づきやがったん
じゃないか?

「・・・・・・・・・・あ〜はいはい、付けりゃ良いんでしょ付けりゃあよ」

「!!!」

なんかもうどうでも良くなってきたので、俺はディーの手から赤いピアスを掬
い取った。嬉しそうに目を見開いたディーを横目で見つつ、ぴらぴらと揺らし
て見る。

「ただし、今は違うピアスしてっから駄目だぞ。コレ高ぇんだから失くしたら
 困る」

髪を耳にかけて指差せば、ディーはこくこく頷いて瞳を輝かせた。

「それでもよい!明日、つけて見せてくれ!!」

「ああ。それまでコレはお前が持って―――」

頬を上気させて喜ぶディーに苦笑しつつ、俺はピアスをディーに返そうとした。
だがその承諾の途中で、お袋の言葉が頭をよぎる。


『――明日からお風呂改築するから――』


俺の頬が引き攣った。


「・・・・・ジン?」

俺の異変に気付いたディーが、訝しげな顔で覗き込んでくる。俺はその視線か
ら微妙に逃れつつ、薄い笑みを浮かべて虚空を見つめた。頭の中で、「これが最
期の可能性大」というフレーズが浮かんでは消えていく。


「・・・・・・・・・・・・。」




・・・・・・ま、それもまた運命ってコトで。




俺は早々に結論を出すと、これ以上無いくらいに優しい微笑みでディーの両肩
に手を置いた。そこで何故か逃げ腰になるディーを両手に込めた力で引きとめ、
ゆっくりと囁く。


「あのな、俺んちの風呂、明日から改装するんだわ」


良く意味が判らないのか、首を傾げて俺を見返すディー。


「・・・だから、今日から最低一週間は会えねぇし、下手したらこれが最後だ」

「――――――」

そこで一呼吸置いて、俺はディーの両肩から手を離した。ディーの瞳が、徐々
に大きく見開かれていく。

俺はそれを少々気まずい思いで眺めながら、持っていたピアスをディーの手の
平に載せようとした。


「――――ゆるさぬ!!!」


が、中腰になった俺にディーが飛びつき、不意を打たれた形で間抜けにも湯船
に引っくり返る。湯の入った鼻に激痛が走り、俺は一瞬相手がガキだというこ
とも忘れてバーサークしかけた。

「い゛ってぇッ?!――こっのクソが、き・・・」

だが睨み上げた瞬間、俺に馬乗りのような形でしがみついたディーが言葉も無
く涙を溢れさせているのを見て、俺の怒りは急速に萎えた。

ぼたぼたと、俺の顔に大粒の涙が落ちてくる。

「――ゆるさぬ・・・・、二度と会えぬだなどと・・・・・、そんな・・・・・」

真っ当な善人が見たら心が痛んで仕方ないだろう表情を浮かべ、ディーが俺の
体を全身で押さえつける。その大きく戦慄く唇を見て、俺は小さく溜息を吐い
た。

「・・・・あのなぁ、別に必ずしもそうなるとは言ってねえだろ? 全部俺の推測推
 論予測予感」

プラス説明の出来ない確信。

「そのような可能性が少しでもあるならだめだ!!」

「だめってお前、どうしようもねーし」

「戻らねばよい」

「あ?」

「ここから、二度と戻らねばよいのだ」

「・・・・・・・・ぁあ?」

いつ間にか泣き止んでいたディーは、強張った顔で笑った。眉をしかめる俺に
手を伸ばして、子どもの精一杯の力で両肩を握り締めてくる。

「だれもここに近づけねばジンは戻れぬ。湯をぬいてしまえばジンは帰れぬ」

俺の胸元に顔を伏せたディーの表情を知ることは出来ない。だが、その不穏な
呟きは痛々しく、俺はそっと眉を顰めた。


――確かに、俺はこいつに少しの同情と、兄のような微かな愛情を持っている。
孤独だと言うディーに、子どもらしい感情というものを与えたいと思ったのも
事実だ。


だがそれは、俺に依存させるためでは無かった。



俺はただ、もっと気楽に生きさせてやりたいと思っただけだ。




こんな―――・・・・。





「・・・・・・ディー、すまん」


俺は、先ほど叫んだディーの声で様子を見に来たのであろう人影を見つめて、
一度だけディーを強く抱き締めた。



おそらくは、最初で最後の抱擁を。











いつの間にか、俺は生ぬるい水の中を浮遊していた。
もう二度と触れることはないのだろう、不可思議で、憎い水。


息が続く限りその中で漂い続けて、ようやく水を掻き分けようとした時。


俺は、きつくディーのピアスを握り締めていたことに気が付いた。





ディー。





お前は、俺を憎むか。








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