斜陽


「―――ミラの子、か」


ルシュディーは、生まれて初めて見る父親というものに、緊張と恐れと期待と
で、頬が熱く手足が震えるのを感じた。

ルシュディーの実の父親は、この国で最も尊い神、太陽の化身であるフィエロ
ンの王である。

だが、身分の低い女官を母に持ったルシュディーは、第四番目の王子というこ
ともあって、これまで一度も王に目をかけられたことは無かった。

数多くの寵妃を持ち、正妃が生んだ世継ぎの王子も、側室が産んだ備えの王子
達も順調に育っている今、手慰みに玩んだ女官の子など、王にとっては路傍の
石も同然だったのだ。

今日、ルシュディーの拝謁が叶ったのは、王宮女官だった母・ミラが病死し、
その生家も先日起こった洪水によって無くなってしまったからだった。


これまでとは一変するであろう、ルシュディーの生活。


母と祖父母、合わせて四人の暮らしは慎ましくも幸せだったが、毎日遠くに眺
めていた砂漠に煌めく太陽の王宮に、夢にまで見た父親と暮らせる未来の日々
は、きっと素晴らしいものに違いないと、ルシュディーは信じていた。


いつも母が語ってくれた通りの父の姿に、皆がいなくなってしまってもきっと
幸せになれると、信じていた。




*




「王太子殿下、この良き日に成人の儀を迎えられましたこと、心からお喜び申
 し上げます」


あの日から2年、ルシュディーは6歳になった。正妃の生んだ第一王子、フィ
エロンの王太子である異母兄の成人と同じ日に。

赤々と燃える篝火に揺れる自分の影を見つめながら、ルシュディーは冷たい石
の床に跪いて頭を垂れた。


「・・・・・フィエロンに、天の火と水の祝福があらんことを」


何度も何度も練習した口上を完璧に諳んじて、ルシュディーはゆっくりと顔を
上げた。

ルシュディーよりも数段高い位置に立ち、王太子は母の違う弟を睥睨している。


その更に高み、黄金の玉座には、何の感情も漂わせぬ顔で見下ろす父の顔が。



ルシュディーは強く瞼を閉じると、もう一度、小さく頭を垂れた。





*




かつて王の愛人が住んでいたという、6歳の少年がひとり住むには広すぎる離
宮の湯殿で、ルシュディーはぼんやりと温い水面を見つめていた。

ここでは最近、不可思議な出来事が連続して起こっている。

胸の中で澱んでいく重苦しい痛みを押し込めて、ルシュディーはその不思議な
男のことを思い出していた。


『・・・泣くんじゃねえよ男がよ、』


『俺は、ジン。タカスガ ジンだ』


『お前の名前は?』


『ディー』


「・・・・ジン・・・」

いつも、ルシュディーの傍を突風のように駆け抜けていく黒髪の人。

無礼で乱暴で、でもとてもきれいなあの男は、一体何者なのだろうか。

いつもまぶしい笑みを浮かべ、ルシュディーを仔犬か何かのように扱う奇妙な人間。


・・・いや、本当に人間なのだろうか?


あんなに白い肌の人間は見た事が無い。

あんなにさらさらとした黒い髪は見た事が無い。


あんなに自分を真っ直ぐに見つめてくる黒い瞳など、見た事が無い。



・・・もしかしたら。



あれは、自分が造りだした、夢の幻なのかもしれない。




もう遥か遠くに思える幸せだった日々と、かつて思い描いていた父との生活を
瞼に浮かべて、ルシュディーはそんな自分を哂った。





「――ッハっ、」


唐突に、激しく水面が波立った。


覚えのあるその感覚、無意識に視線が中心へと引き寄せられていく。


「・・・・ジン・・・・?」


「おー、二日ぶりだな、ディー」



こわれた夢が、笑った。









――幻でも人間でも、男はルシュディーの前に姿を現した。

そして、ルシュディーの心に大きな波紋を投げかけては、また消えていく。


いつの間にか、男はルシュディーの心に深く根付いていた。


ルシュディーの名を呼び、血の通った確かな体で触れ、笑いかける。

いつの間にか、男と出会う僅かな時間が、ルシュディーの生活の全てになって
いた。


楽しかった。


何も知らなかったあの頃のように、声を上げて笑う事が出来た。


楽しかった。



楽しかった。




それだけが、全てだったのに。





「・・・・・・・・・・・・・ジン・・・・・」




徐々に消えていく波紋を見つめて、ルシュディーはきつく拳を握り締めた。





「・・・・・・・ジン!!!」









その日、ルシュディーは、決してこわれない夢を抱いた。


深くて昏い、確かな夢を。



「――ゆるすものか、あきらめるものか」





決して。






<back   >next