レーテが目覚めた時、既に部屋は薄暗い灰色に滲んでいて、昨夜から随分と長
い間眠り続けていたことが判った。

そのまま寝過ぎた事と泣いた事とでずっしり重い頭を抱えていると、テラスで
何かが揺れているのが見えた。そのことで、もう自分の瞳が随分と見える様に
なっていることに気が付く。揺れていたのは、幅広のリボンだった。

「どうして・・・?」

こんな物を結んでいくのは、あの男以外にはありえない。けれど、乳母に密会
が気付かれる事のない様に、男は何一つこの部屋に残していくことは無かった。

なのに何故、今日に限って、こんな置き土産があるのだろう。

レーテにはその意図が判らなくて、ただ風に靡くリボンを見つめていた。
そして数瞬迷って、思い切ってそっとテラスからはずしてみる。手触りの良い
絹のリボンは、色の蘇っていないレーテの瞳には濃い灰色にしか見えなかったが、
もしかしたらとても綺麗な色をしているのかも知れないと思った。



それからしばらくぼんやりと手の中のリボンを見下ろしていたが、階下のざわめき
がレーテの耳に届いて来てハッと我に返った。常に静寂に包まれた塔が騒ぐ時、
それは父が訪れた時だけだ。

父がこの塔に訪れるのは、母の命日のみ。
そしてその日だけ、父は普段省みることの無いレーテを、狂った様に求める。

全ての服を剥ぎ取り、全ての肌を晒したレーテを、ただその乾いた手の平で
撫で擦るのだ。一晩中、亡くなった母の名を呟きながら。



(―――私には、暗闇だけが唯一の寄る辺)
(―――おぞましい感触、生々しい吐息、そして何より穢れたこの体)

(―――その黒は、私から全てを隠してくれる―――)



荒々しく近づいてくる足音に身を凍らせながら、レーテはきつくリボンを握り
締めた。


(――王子様。やはり私は物語のラプンツェルにはなれないよ。
 私は、あなただけの、綺麗なラプンツェルでは無かった)


このままリボンを持っていても、すぐ父に奪われてしまうだろう。
それでもレーテには男の残したリボンを手放すことなど出来なくて、たとえ少しの
間だけでも身に着けていたくて、震える指先で左の手首にきゅっと結びつけた。


そして深く深く、何度も深呼吸を繰り返し、激しい音と共に開かれた扉の先を、
強く見据えた。


「―――・・・?」

開かれた扉の前に立っていたのは父ただ一人。それは毎年変わらない光景なのに、
父の様子だけがおかしかった。髪と服は乱れ、瞳はぎらぎらと輝いている。

「レーテ・・・レーテ・・・。・・・・ローレンシータ・・・・!」

荒い呼吸でレーテと母の名を繰り返す。その異様な姿に、レーテの体は無意識
に後退っていた。

「逃げるのか、ローレンシータ!!」

そんなレーテの姿を見て、錯乱した父が恐ろしい形相で掴みかかってくる。
突然の父の凶行に必死で抵抗するが、狭いテラスでは逃げようも無い。

「・・・ローレンシータ、愛している・・・・逃がすものか!」

息も出来ないほど強く抱き絞められ、レーテの顔が苦痛に歪む。うわ言を呟き
ながら首筋に顔を埋める父に、力の限り両手を突っ張って体を離す。

「父上っ、ちちうえ! 一体何が・・・」

テラスの手摺に身を仰け反らせて叫んだレーテの瞳に、塔から離れた南の空、
父の城がある街の方向が、夜空に明るく滲んでいるのが見えた。

「――し、城が燃えている・・・・ッ!?」

それはどう見ても、空が炎に照り映えている様にしか見えない。
予想外の事態に驚愕したレーテは、必死に父の肩を掴んで問いただした。

「父上! なぜ、なぜ城が燃えているのですか!? 一体何があったのです、
 父上!!」

血の滲む様なレーテの叫びに正気が戻ったのか、父はレーテの首からゆらりと
顔を起こすと、濁った眼差しを炎の夜空に向けて呟いた。

「―――死に逝く竜の顎だ」

「・・・・・りゅうの・・・あぎと?」

父の吐いた聞き覚えの無い言葉に、困惑したレーテが口中で呟く。それが耳に
入ったのかどうか、父は微動だにせず言葉を零し続けた。

「奴らは悪魔だ・・・、私の城が・・・・、全て奪われてしまった――」

レーテの顔が微かに歪んだ。徐々に父の腕の力が強まっている。そして次の瞬
間、息が止まるほどの強さで抱き潰された。

「・・・・・お前まで奪われてなるものか!!!」

父の絶叫に、呼吸の出来ない苦しさで涙を滲ませながら、レーテは父への恐怖
と憐憫で胸が潰されそうだった。

そんな二つの感情に挟まれて身動きの出来ないまま、意識が消えかけた時。

突然父の体が痙攣したかと思うと、ずるずるとレーテの上から床へと倒れ込ん
でいった。



「―――今晩はラプンツェル。ご機嫌いかが?」



レーテが呆然と倒れた父を見下ろしていると、もう聞き間違えの無いほど馴染
んだ男の声が、まるでいつもの様に挨拶をしてきた。
ぎこちない動きで顔を上げると、父の立っていた真後ろに、一人の見知らぬ男
が佇んでいる。

「・・・・・どうして、此処に・・・」

初めて見ることの出来た男の顔、来る筈の無い男の姿に、レーテの頭はぐちゃ
ぐちゃになってしまって何も考えることが出来ない。喘ぐように問いかけたレーテ
の言葉に、男はほんの少し垂れた目元を細めて笑った。

「言ったでしょ? 俺は君を守る王子様だって」

そんな男の笑顔を見たら、レーテの心臓も指の先も舌でさえも痺れてしまって、
ただ顔をくしゃりと歪めて男を見つめることしか出来ない。呼吸もままならな
いでいると、男は父を跨いで優しくレーテを抱き上げた。

「怖かったよね、もう大丈夫だよ。これからはずっと一緒に居るからね」

そしてレーテの背中をぽんぽんと叩く。その温かさに、どうしようもなく胸が
熱くなったレーテは、男の肩に顔を埋め大声で泣きじゃくった。大声を上げて
泣いたのは、生まれて初めてだった。



男がどれほどレーテを宥めようと、レーテの涙が止まることは無かった。
こんなに温かい男ときつく抱き合っていても熱の通わない自分の体に、どうしよう
もない嫌悪感が沸いてくる。きっともう、瞳も金色になっている筈だ。

男が顔を上げさせようとしても、男に魔性を知られることが恐ろしくて、レー
テは頑なに顔を伏せ続けた。


「――ねえ、ラプンツェル。何がそんなに恐ろしいの? 
 お父さん? 自分?
 それとも・・・・・俺?」


男の最後の言葉に、喉がひくりと引きつる。今レーテが最も恐れていたのは、
間違いなくこの男だった。
この男の心だった。

そんなレーテの反応に、男の体が一瞬強張る。そして震える腕でレーテの体を
きつく抱き締めると、耳元で低く囁いた。

「ダメだよ、ラプンツェル。俺をずっと、優しい王子様のままでいさせてよ」

何故男の声が引き攣っているのか判らなくて、レーテは顔をあげて男の顔を覗
き込んだ。そこにあったのは、感情の見えない顔の中で、燃えるように輝く二
つの瞳。

「・・・・もう、遅いよ。泣いて嫌がろうが、お前は俺のものだ・・・!」

そうして荒々しく唇に喰らいつかれながら、レーテは全身が歓喜で震えるのを感じた。
必死で男の背中を掴み、呼吸の合間、途切れ途切れに男に伝える。

「――あなたと、ずっと、一緒にいたい――」

レーテの精一杯の告白に、ますますレーテを抱く腕の力は増した。その心地良
い苦しさに、レーテの体がぐったりとしな垂れかかる。ようやく男が唇を離し
た時、胸を大きく上下させながら、レーテはうわ言の様に呟いた。

「私は、魔性だよ・・・。きれいな、ひめぎみでは、ないよ・・・・」

涙で蕩けた金の眼差しを向けられて、男の顔は甘く緩む。

「・・・魔性でも。君は俺だけの、金のラプンツェルだ」

金の瞳を真っ直ぐ見つめて応える。そしてゆっくりと降りてくる男の顔に、レ
ーテはそっと手を伸ばすと、もう一度、静かに口付けを交わした。






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