第四十五話

「「・・・・・・・・・・・・・・・」」


目を剥く俺に眉を寄せる少年、張り詰めたような沈黙が辺りを覆う。
え、何この状況? とうろたえる俺に構わず少年が口を開いた。


「―――どうして、こんな所にいるんですか」

冷たい声音で尋ねられ、思わずびくっと視線を逸らす。
まさかまさか君を追いかけてたら迷子になっちゃいましたーとはノミのプライ
ドにかけて言えない俺は、「――そ、それはもちろん――!」とさも自信ある
口ぶりで弁明しかけてはたと我に返った。

原因はお前だ。

「・・・そっちこそ、何でここにいるの」

「・・・・・・・・・・・・」

じりじりと睨み合い、というか互いの出方を探り合い、どちらが先に口を開く
か無言の攻防を開始する。

しかし心身共に疲れきった俺が早々に切れかけたとき、少年がくるり
と背を向けた。

「・・・オレの後についてきて下さい。お屋敷までお送りします」

だがそこで素直についていけるほど俺はお人よしでもない。

「・・・・なんでそんなことすんの? ずっと俺から逃げてたくせに」

大人気ない台詞を返す俺に少年はぴたりと歩を止める。
それでもついてこようとしない俺を険しい顔で振り返った。

「・・・・・わかりませんか」

「・・・・・わかりませんよ」

なおもあてつけがましく答えると、その心情を表すように少年の唇は歪む。

「・・・これで貴方にもしものことがあったら、罰を受けるのはオレですから」

そして吐き出された言葉に俺の眉も歪んだ。

「・・・・いや、もしもも何も俺が勝手に追いかけたんだし、俺と一緒に怒られる
 ならまだしも罰なんて」

そんな大層なモン有り得ないから、と言葉を返すと、俯いた少年が何事か呟いた。

「――それ、本気で言ってるんだとしたら、本当にタチが悪い・・・」

世間知らずの貴族が、と微かに聞えた謎の罵声に、「――は?」と幾分か低い頭を
見つめた。

「・・・・・誰が、貴族だって?」

顔を上げた少年が無表情で俺を見る。
俺も無表情で見つめ返した。

「・・・俺、一般人だけど・・・」

「・・・・・・・・・・・」

しばしの間見つめ合い、無言で互いを観察した。

――年の頃は中学生、目を引く赤いバンダナはすっぽりと頭を覆い、少しばか
り零れた短い髪はよく見ればルチェと同じ。顔立ちも似ている。上着は濃い茶
色の長袖が一枚に灰色のベストを重ね、肩からは皮のカバンを下げているがあま
り重そうでもなかった。ズボンは大きめ。靴もでかい。しかし痩せっぽちかと
思えばそうでもないようで、握られた拳は結構ごつい。

「――どこが」

同じく俺の全身を眺め終えた少年はそう吐き捨てたが、正真正銘馬子にも衣装
のこの俺は堂々と胸を張って答えた。

「自慢じゃないけどこれは借り着だ。俺は正真正銘の凡人だ! 
 俺の家は先祖代々農民百姓の出だからな」

「・・・・・・・・・・・・」

この世界の家である爺さんの家でも農民だったが、実際元の世界でも親父の実
家は農家だったので嘘は一つも言っていない。先祖伝来の土地には一番古いも
ので江戸時代の墓がある。

どうよ!と見当違いの怒りを見せた少年に鼻で笑って腕を組めば、少年はひく
りと片頬を上げて笑った。

「・・・本来の身分がなんであれ、子爵にとって貴方が大事な人間だということに
 変わりはないでしょう」

・・・・・・・・うん?

「・・・・子爵って、誰?」

小さな声で尋ねると、微妙な間をおいて聞き返された。

「・・・・・・本気で言ってんの?」

そして気のせいじゃなく見せ掛けだけでも丁寧にしていた口調がタメ口に変化、
完璧に少年の中で俺の立ち位置が転落したのが分かるがどうしようもない。
向けられる少年の眼差しが果てしなく冷たかった。

「――自分の住んでる屋敷の主も知らないのか」

「・・・それぐらい知ってるよ、ゼートだろ」

少年の目がすっと細められる。

「農民というならその呼び方はなんだ。無礼だろうが」

「・・・・・・・・・・・・」

瀬田優心農民説はまだ信じられないのか、不審そうに咎められるが無礼と呼ばれる
ポイントが判らない。

呼び方? と先ほどの自分の台詞を総ざらいし、「・・・ゼート様?」と試しに言い
換えてみたが余りの違和感にぶふっと噴き出した。
ありえん。今更過ぎてありえん。

少年は唇を歪ませた俺に更に眉を寄せて訝しげな表情を作ると、「・・・あんた本
当に一体なんなんだ?」と言って俺をじっと見つめた。

「・・・そんな呼び方を許すなんて、よっぽど・・・」

複雑そうな視線を向けられるが、俺には君の思考が複雑すぎて良く判らないよ。

「あー、あー、つまりゼートって子爵なのか?」

話題がズレきる前に確認すると、少年は一つ頷いて言葉を紡いだ。

「前ディンケラ候の養子で現候の甥、ゼートリオン・ハフグレン=ディンケラ
 子爵だ」

これぐらい知っておけ、と言わんばかりの目で見下すように見られたが、俺は
それどころでは無かった。

「――ゼートリオン?」

なにやら凄まじい衝撃を受けていた。

「・・・・・ゼートリオン・・・・・ゼート・・・・・・ゼートリオン・・・?」

教えられた名前と既知の名前とを繰り返し、未知の響きに感じた高貴な気配に
闇よりも深く沈黙する。日が落ちてなお濃さを増した路地裏の奥を凝視しなが
ら、俺はこの一ヶ月で見慣れたゼートの姿を思い出した。

ことごとく大したことの無い話だと動揺する自分を鎮めようとしたが、どうし
たって納得出来なかった。


・・・なんでこいつから教えられなきゃならないんだ?


『――な、あんたの名前、何ていうの?』

ランプの明かりを調整していた手が、ぴたりと止まる。

無言で振り向いた瞳は何を考えているのかさっぱり判らなかったが、俺はベッ
ドから身を乗り出して食い下がった。

『俺、まだあんたの名前教えて貰ってないよ。あんたは俺の名前知ってるくせに』

驚いたような沈黙に自覚なかったのかと呆れて頬杖をつけば、男は静かに手の
動きを再開してカチリとランプの金具を止め、そして何故か入念に油のついた
指先を拭き始めた。・・・まさかそれで誤魔化しているつもり?

『――そうだ、別に瀬田じゃなくて下の名前呼び捨てにしたって構わないよ? 
 今更そんなの気にしないしさ』

ついでに提案してみると、男はひたと俺を見つめた。

『・・・下の名前?』

『そ、まあ名字のほうが良いっていうならそれはそれで構わないけど、』

『セタは家名か』

『それ以外に何があるって――』

被せられるような問いかけに首を傾げると、男はじっと黙り込んだ。

『・・・何だよ?』

『・・・いや』

細められた青い目が、ランプに揺れる。
首をひねる俺を黙って見つめ、ゆっくりと口を開いた。

『・・・・・私は、』

見上げた俺を真っ直ぐ見下ろし、男は言った。


『―――私の名は、ゼート。ゼートという・・・・ユーシン』


ようやく知った男の名前を、俺は何度も繰り返した。


「・・・・・ゼート・・・・」

零れた呟きは我ながら今にも泣き出しそうで、ぎょっとして素早く口を覆う。
咄嗟に確かめた少年は無表情に俺を眺めていて、目が合うと再び歩き出した。
その小走り一歩手前の速さに、重い足を引きずり慌てて後を追う。

――そういえば、と頭をよぎった疑問に、目の前の赤を見ながら尋ねた。

「――結局、なんで俺から逃げたわけ?」

初対面だったのに、と呟くと、目の前の背中が明らかに強張った。

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

何も答えず更に歩を進めた少年に、もう一つ疑問をぶつける。

「・・・お前の名前、ライチェっていうんだよな。美容師のライチェと同じ名前で」

背の高い金髪の。と続けると、少年は苛立たしげに足を鳴らした。

「・・・それがどうした」

「別に・・・何か関係でもあるのかと思って」

「あるわけないだろ」

「じゃあどうして俺から逃げたわけ? 初対面なのに」

あの時顔色が悪くなったのって、やっぱり俺を知ってたからだよな? 
なぁなんで? 

「俺、お前に何かしたっけかなぁ」

初対面の筈だよな〜? と延々呟き続けると、ついに耐え切れなくなったのか少
年は舌打ちして足を止め、ぐしゃっとバンダナを握り締めた。

ふははははっ、俺の陰湿さをなめるなよ。俺はまだ姉ちゃんに食われたおやつの
数を覚えている。

さぁとっとと吐け! と少年の肩に手をかけると、その動きに腕にかけられていた
荷物が揺れて少年の背中にぶつかった。それを見た俺が「あっ」と思う間もなく
謎の衝撃を受けた少年が訝しげに振り向いた。

「「――・・・あ」」

意図せずして少年と声が被ったが、すっかり忘れていた建前上の用事に一つ咳
払いをして少年にそれを差し出した。

「・・・・あー、えっと、これ、・・・・忘れ物、だよ?」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

今更にも程がある手籠を受け取り、少年は最高に複雑な表情を浮かべる。
俺もすこぶる白けた空気に詰問する契機を完全に失い、気まずく辺りを見回
したところでふと少年が顔を上げた。

そして何事か言かけた少年の視線はそのまま俺を通り越し、俺の背後に向けら
れた瞬間パっと見開かれた。

「――走るぞ!」

次いでひったくるように俺の腕を取り、全く疲れを感じさせないスピードで走
り出す。

「えっちょっ?!」

「黙れ!」

何事かと叫ぶ俺に一喝を加え、また猫のように素早い動きでぶらさがっていた
洗濯物の紐を切る。
お前見知らぬお宅になんてことを、と慌てる俺を気にも留めず、更に積まれて
いた空箱をどんがらがっしゃんと蹴り転がした。
何この子反抗期?

お前アクション映画の見過ぎだぜ? と突っ込もうとして此処で映画なんて見れ
るワケないかとまた微妙にテンションが下がる。今日は俺の体力の限界に挑戦
する日なのか・・・と空ろに転がっていくガラス瓶を目で追うと、通り過ぎた後方
から聞えた騒がしい声にぐるりと首をひねった。

「―――え」

数人の人影が蠢いていた。

「っちんたらするな、もっと走れ!」

スピードの衰えた俺を強く引っ張る少年の声に、ハッと我に返って前を見る。
ごちゃごちゃと入り組む道と暗闇に行く先は知らず、ただ幽霊のように浮かび
上がる少年の細い背を追いかけた。







――どうやってこの速さの中確かめていたのか、不意に立ち止まった少年は今
まで通り過ぎていた扉と同じような扉を開いて俺を中に押し込めた。続いて少
年までもが滑り込んできて、音も立てずに扉を閉める。

すると視界は完全な暗闇に包まれて、思わず身じろいだ俺の足を少年は軽く蹴
って「静かに」と囁いた。何が何だか判らないがとりあえず蹴られたことは覚
えておこう。

息も詰まるような狭苦しい暗闇の中、じっと外の様子を窺っていた少年がほうっ
と安堵の息を吐く。

そして硬直し続ける俺の脇を四つんばいで這い進み、ごそごそしていたかと思
うと突然光が零れた。

「・・・頭打つなよ」

久しぶりの光に顔ごと背けた俺を、少年は面倒そうに注意してから先に出て行
く。やがて光に慣れた目をそちらに向けると、本当に俺も通れるのかというよ
うな細い隙間が空いていた。


「・・・・・・・・・」


とりあえず、腹が減ったと思った。










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