第四十六話


そして今度は違う理由で必死に顔を背けている健全な二十歳男子である俺。

「おや。見ない顔だねぇ。随分可愛らしい坊やだこと」
「やぁだ! まだお化粧も終わってないのに!」
「ねえ、こっちでいっしょにお菓子でも食べない?」
「あっちに行ったら頭っから食べられちまうよぉ?」
「アッハハハハハハ!」

立ち尽くす俺の前で高らかに笑い声を上げるのは妙齢のご婦人がた。

いや、構わない。麗しいお姉さま方に囲まれるという状況は一向に構わない。

ただ問題は、彼女達が皆あられもない格好をしているという一点につきる。

普通なら願っても無いことだと大歓迎するだろうこの状況、しかし実際に陥っ
てみると非常に身の置き所なく常に緊張を強いられる生き地獄であった。


・・・キャバクラにも行ったことの無いこの俺に、いきなり娼館とかレベル高すぎ・・・。






――あの細い隙間を何とか這い出し、またも続いていた物置のような部屋から
抜け出せばまさにそこは別世界。花とも香水ともつかぬ嗅ぎ慣れない匂いに眉
をしかめ、何気なく顔を上げれば目の前には輝くような白いおみ足がスリット
からコンニチハ。

「・・・・・・・・・・・・」

唖然としてその白さに釣られるまま徐々に目線を上げていくと、中身が透けそ
うなほど薄いワンピースをまとったどえらい美人が俺を見下ろしていた。

「―――いらっしゃい、可愛いお客さん」

凍りついた俺に更に笑みを深め、垂れ落ちる蕩けそうな蜜色の髪をかき上げて
軽く小首を傾げる。

その赤子の手を捻るより楽に男を瞬殺できそうなそれに硬直したまま動けない
俺を、少年の冷たい眼差しが貫いた。

「・・・どこ見てんの?」

ぼそっと加えられた一言は効果的に俺の意識を元に戻したが、何も言い返せな
いジレンマに「・・・判らないのか? それはお前がボウヤだからさ・・・」と内心
ひとり黄昏ながらさりげなく視線を逸らす。

まさかそれがネグリジェとかいう代物なのだろうか、白いよ薄いよ薄すぎるよ、
何かちょっと見えそうだよねえ誰か早く服を、服を! とだらだら冷や汗をかき
始めた俺に気を遣ったのかどうか、女性はふふっとこれまた色っぽい笑みを零
して色の濃いガウンを羽織った。

「こんな格好でごめんなさいね」

前でゆったりとリボン結びにされた姿は腰の細さを強調したが、目のやり場に
困ることは無くなったのでようやく首を元に戻す。

「・・・・・・・・・・・・」

露出とエロはイコールじゃなかった。

「それで今日はいったいどうしたのかしら? また何をしでかしたの、ライチェ」

しかもこんなお友達まで連れて、と指に髪を絡ませながら俺を見やる麗しの人
に、やはり名前はライチェで良いのか、呼ばれた少年は面倒そうに俺を顎で指
し示して「こいつが原因だよ」と鼻を鳴らした。

「――もっと手前で撒いといたんだけど、いつ諦めるかと思って見てたらこんな
 とこまでうろちょろしてさぁ。オレはともかく、性質悪いのにつけられてんのも
 気付いてねーの」

仕方ないから助けてやったんだけどさぁ・・・とわざとらしく溜息を吐くその様子は
心底俺に呆れているようだったが、文句も言えずに押し黙ると女性は俺を見つめて
眉をひそめた。

「・・・・貴方、此処まで一人で?」

ついと視線を走らされ、居心地悪く身じろぎする。
女性はそんな俺に密やかな溜息をつくと、めっ! という感じに少年に向き直った。

「駄目じゃないライチェ。どうしてこの子に追われたのかは知らないけれど、
 逃げるならもっと考えなきゃ」

「誰がここまで来ると思う? こいつ、すっげえ世間知らずで」

「言い訳するんじゃないの。この子、貴族の子でしょう? 何かあってからじゃ
 遅いのよ」

「・・・ちゃんと助けたじゃないか」

「そうね、それは偉いわ、ライチェ」

――こんな世慣れない子を見捨てるようじゃ、私がチュチェに代わってお仕置
きをしてあげる。

濡れた赤い唇を弓なりにしならせた女性はそう言うと、固まった少年に背を向
けて俺を振り返った。

「ごめんなさいね、坊や。この子が何をしたのかは知らないけれど、悪い子じゃ
 ないのよ。許してやって頂戴」

優しげに微笑まれたがそこには何か逆らえない圧力のようなものを感じ、俺は
ただひたすら頷いて姿勢を正した。

「・・・それで、貴方はいったい何処の子かしら? 随分上等な服を着ているけれど」

――お父様が黒髪? それともお母様に似たのかしら。とっても綺麗な髪と瞳ね。
お肌も本当に艶々で―――え? 貴族じゃない?

「・・・あら、それじゃあ商家の子だったかしら。いやだわ、私の目も曇ったわね」

人となりを当てるのは得意だったのに、と頬を押さえる様はまるで少女のよう
に可愛らしかったが、少年がぽつりと「・・・ディンケラ子爵の家人だよ」と告げ
た途端、こちらが驚くほど顔を輝かせた。

「――まあ! 子爵様の?」

そうして白い両手を頬に当て、感動詞を繰り返す女性の頬はうっすらと上気し
て心なしか瞳も潤んでいる。そんな花も枯れ落ちんばかりの美貌を向けられた
ら男として胸踊らないワケにはいかないだろうに、何故か俺の心臓は嫌なリズ
ムで跳ねた。

「・・・・・まぁ・・・・!」

さらに判りやすく声のトーンが半音上がり、「子爵様はお変わりなく?」と問い
かける顔はまさに恋する乙女。俺はただ反射的に頷きながら、無言で女性を眺
めた。

女性の年齢をとやかく言うなんて姉ちゃん曰く極刑ものだが、おそらく彼女は
俺の姉ちゃんよりも年上だろう。もしかしたら丁度ゼートと同い年くらいなの
かもしれない。煮詰めた蜂蜜のような髪はツヤツヤと肩に流れ落ちて、目に眩
しい白い肌にバラ色のガウンが酷く良く似合っていた。煌く瞳はスミレの色で、
存在自体が花のような人だと思った。

まさか、と思った。

「あぁこんなことしている場合じゃないわ、それなら早く子爵様にお返ししないと!」

時間を確かめて慌てた風な女性は手早く髪をまとめる上げると、少年にお金を渡し
て部屋の外へと追い立てる。

「直ぐに馬車を呼んで頂戴。表玄関によ!」

少年は訝しげに女性を見た。

「裏口じゃなくて?」

「この時間に馬車なんて停めたら目立ってしまうわ。いっそ表から送り出した
 方が勘繰られないもの」

ほら早く、と背中を押された少年はしぶしぶながら足早に消え、部屋には俺と
女性だけが残された。

・・・・気まずい。

俺を忘れた様にごそごそとクローゼットを漁っている女性はああでもないこう
でもないとうんうん首を捻っている。それはまるで初めてのデートで着ていく
服に悩む女の子ような格好で、俺はまたどんよりと胃が重くなったような気が
してこっそり溜息を吐いた。

「――仕方が無いわ、これにしましょう」

ぼんやりと室内を眺めていた俺に、何やら決めたらしい女性が顔を上げる。

・・・何だ? とそこへ生気無く目線をやれば、女性はにっこりと笑って布を
広げた。

「これを着て下さらない?」

「――――――」

そう言って提示されたのは、艶のある生成り色のローブ。

――え? と反射的に女性の顔を見れば、女性は有無を言わせぬ美しい微笑みで
俺を見つめていた。

・・・・・え?

「うちの子達なら何も問題は無いけれど、貴方みたいな子がここの人間に顔を
 覚えられても得することは一つも無いの。だからフードで顔をしっかり隠し
 てらっしゃい」

女物で悪いけれど、と差し出されたそれには縁に動物の毛らしき真っ白なフワ
フワが飾り付けられていて、いやいやいやと腰が引けると困ったような顔を
された。

「これでも一番地味なものなの。それとも私の服は嫌?」

知らない人でも美人は美人、嫌と言えるかおのれ卑怯な。

無言でフードに手を伸ばすと、女性は目を細めて俺から離れた。


「――馬車、すぐ用意できるって――」

そこで戻ってきた少年が俺をぎょっとしたように二度見して、言葉を途絶えさせ
るのに居た堪れない気持ちで一杯になる。俺はフワフワのポンポンがついた首元
のリボンをそっと結びながら、静かに顔を伏せた。

「・・・・・それ」

何も言うな。

「それなら館を開く前に十分間に合うわね。ご苦労様、ライチェ」

気まずく向かい合っている俺と少年にくすりと笑い、さあ、と手を叩いて女性は
扉を開けた。

「私はこれから準備がありますからね。二人は広間で待ってらっしゃい」

女の着替えは覗いちゃ駄目よ。そう言われればさっさと部屋から出ないワケに
もいかず、俺はまたのろのろと少年の後ろについて広間とやらに向かったワケ
だが。


まさかここが娼館とかいう場所だったなんて誰が予想できますか?


驚くほど煌びやかな広間に着いた途端、俺は気だるげに歩いていたご婦人方の
一人に目ざとく発見され、あれよあれよという間にその場にいた幾人もの女性
たちが俺の周りに大集合。開店前にひょっこり現れた見知らぬ男、もとい百戦
錬磨の彼女達にしてみればまだまだケツの青いヒヨッコである俺にきゃあきゃ
あと騒ぎは広がり、体のいいオモチャ扱いされて現在にいたる。
しぬ。

「あら、そのローブ、もしかしてねえさんのじゃない?」
「やだっ、すっごい可愛い!」
「野ウサギみたぁい!」
「ね、ね、ちょっとだけだから、ね? お化粧させて? おねがい!」
「鼻息荒くするんじゃないよ、はしたないねぇ。可哀想に、怯えっちまってる
 じゃないか」
「そういうアンタだってその手にある付け毛はなんだい?」
「うふふふふふふ・・・」

「・・・・・・・・・・・・・」

誰か助けてえ。

そこにきて俺はようやくここに俺を連れ込んだ張本人である少年のことを思い
出したが、要領よく女性たちの輪から外れていた少年は俺の切迫した様子など
そ知らぬ顔でカバンの中をいじっている。女性たちも最初に出会った美女と同
じく少年とは顔見知りのようで、時折声をかける程度に留まっていた。

・・・貴様! とようやく俺の穿つような視線に気が付いたのか、ふっと顔を上げ
た少年は慌てふためく俺を見てゆっくりと顔をそらした。
・・・・貴様・・・!

「そうだわライチェ、ちょっと前髪切ってくれない? 目に入って煩わしいの」

ストレートの茶髪を背中に流していた女性が、思い出したという風に俺の包囲
網から抜け出して俺の視線の先へと足を運ぶ。「あぁ、いいよ」と視界の少年は
一つ頷き、持っていたカバンから櫛とハサミを取り出した。

「分けたりはしない? それなら少し長めにしておくけど」

「う〜ん、そうねえ、バッサリ切っちゃって構わないわ。ちょっと幼げに
 仕上げたいから」
 
「幼げに?」

「そう、最近のお得意様のお好みなの」

お願い、と背もたれの無い椅子に腰掛けた女性が、目を閉じてライチェに顔を
差し出す。ライチェ少年は何度か髪を梳いてから、「これを持っていて」と女性
に布巾を手渡し手早く髪を切り始めた。

俺はその光景に目が釘付けになった。

「あらあらあら何してるの、みんな早く着替えなさい。時間までもうすぐよ」

不意にかけられたその声に促されるように、俺を囲んでいた女性たちが「やだ、
もうそんな時間?」「今度はじっくりお相手してあげる」「また来てね、坊や」
と騒ぎながら俺の周りから散らばって行く。それでもまだぼうっと突っ立った
ままの俺に歩み寄った女性は、先ほどよりもより一層輝いて見えた。

「お待たせしてごめんなさい。私も馬車までお見送りするわ」

喉元まで覆う繊細なレースはけぶるような薄い黒で、そこから体の線に沿うよ
うにして滑らかな黒が流れている。地味といえば地味としか言いようのない飾
り気の無さだったが、それだけで立派な宝飾品のような髪と瞳が鮮やかに際立っ
ていた。

「ライチェ。貴方は最後まで責任を持ってお送りしなさい」

窓から布巾についた髪を払っていた少年は嫌そうに顔を歪めたのち、諦めの溜
息を吐く。

「――そうだわ、私ったらまだ貴方のお名前も伺っていなかったわね。
 私はメルウィオーラ。この館の主よ」

微笑んで返答を促されたが、俺はポカンと口を開けるだけで何も言えなかった。

「・・・・それとも、娼婦に名前を教えるのはいやかしら・・・?」

哀しそうに目を伏せられて、慌てて頭を下げる。

「お、俺は瀬田優心です! よろしくお願いします!」

あまりの驚きに何をよろしくするのかよく判らない挨拶をしてしまったが、同じ
く戸惑ったようなメルウィオーラさんの「セタユゥ・・・?」という呟きにまた慌て
て言い直す。

「ユーシン・セタです! ユーシンと呼んでください」

微笑んで頷いたメルウィオーラさんはどう見てもただの年若い美女で、まさか
まさかこの娼館を牛耳る女主人には到底見えない。

若干挙動不審気味に目をうろうろさせる俺にニコニコしながら、「馬車が来たよ」
という少年に一つ頷いてメルウィオーラさんはストールを羽織った。

「私もどうぞウィオラと呼んで、ユーシン様」

「さっ、さま?!」

促されるままに豪勢な表玄関から外に出た俺は、ふわっふわなファー付きフード
を目深に被りながら馬車へと向かう。

そこで見た馬車の高級感溢れる外観にも一瞬腰が引けかけたが、情けなさ全開で
うろたえる俺にも美女の笑顔は揺るがない。

その完璧な微笑がそっと近づいてくるのにごくりと息を呑んだ。

「子爵様によろしくお伝えくださいませ」

耳元で囁かれるのと同時、手に何かを握らされる。
するりと離れた静かで甘い香りに、足が縫い付けられたように動かなかった。

御者のおじさんが扉を開け、少年に背中を押されながらも呆けたようにその微笑
を見送る。

「――ユーシン様もお気をつけて」


夜闇にも鮮やかな笑みを残し、娼館の女主人の姿は消えた。










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