第四十三話


――そして瀬田優心は幸せに暮らしましたとさ、なんて簡単には行かないのが
人生ってヤツはほんと上手く出来てるよな。やってらんねぇ。


固定概念とか常識とかそこらへん大切な物を蹴り飛ばしてみた先日、久しぶり
の爽やかな目覚めに元気良く厩へと飛び出し、厩番のお兄さんに見守られなが
らジェードに優しく構われてみたり、仕事に向かうジェードを名残惜しげに放
しつつ見送り際ゼートさんに唇を奪われてみたり、うん、はしゃぎ過ぎだ。

しかしそれもまた当然の事で、何というか一つ吹っ切れたというか、曖昧だっ
た距離が明確になっただけでも随分と心に余裕が出るもんだと軽い体に感心し
た。現金な俺の精神構造に乾杯。

今後の身の振り方なんて考え出したらキリがない、だけど俺達は死に別れる訳
でもましてや世界で離される訳でもない、たとえあの森に戻ったって、何度だ
って逢いに行こう。何度だって逢いに行ける。逢いに行ったって構わないんだ、
だって俺達アレだ、アレだもの。・・・やべ、無駄に表情筋が崩れる。

最高に気分が良いような絶妙に後ろめたいような、とにかく転がり回りたい気
持ちで廊下の壁に懐いていると、いつの間にか普段余り来た事の無い場所に辿
り着いていた。そこは使用人さん達を良く見掛ける区画で、聞けば洗濯部屋や
ら厨房やら、やはり屋敷の裏方が密集しているらしい。

何とはなしに日の当たる渡り廊下を進み、微かに聞こえる金属音や水の音、何
処か懐かしい匂いを辿って行く。それは素朴な石鹸の香りで、俺はその恐ろし
いほど穏やかで優しい空気に完全に気が緩んでいた。


「――ん?」


常緑樹の生垣の向こう側、質素な扉から出て来たのは一番若い使用人の女の子
だった。何度か屋敷内で見掛けた事はあるものの、声をかけようとすれば脱兎
の勢いで逃げられてしまう女の子。そう、まるで変質者にでも遭ったみたいに。
・・・お兄さん、ロリコンなんかじゃ無いんだけどな。

それともそんなに俺の笑顔はヤバそうなのか、いや確かに可愛い女の子と話し
たいという気持ちが無いとは言えない、だけどそれはただ純粋に久しぶりに女
の子と話したいなあというちょっとした男心じゃないか・・・。

そんなささやかな願望をまるで大いなる下心の様に反応され、俺の心は幾度と
無くポキポキと折られていた。

「・・・・・・・・・・・・。」

ここで後ろを付いて行ったら完全に俺は変態か?

俺に気付くことなく屋敷の裏へと回っていった彼女に、内心激しく葛藤しなが
らのろのろと歩を進めていく。・・・なぜなら俺にはある野望があったから・・・。

しかし違う、違うんだ、野望は野望でも俺はただ厨房に行ってみたいだけなん
だ、そしてあわよくば日本食を作れはしないかという切実な欲望の為なんだ、
目的は君じゃなくて君の持っている籠。そこから垣間見えたパン。その出所。

そんな必死になって自己弁護するくらいなら黙ってないで声かけろと人は言う
かしれない、だけど今更そんなコト出来ると思うか? この人気の無い裏庭で?
それじゃあ何で今まで声かけなかったんだよ、今まで後つけてたのかよ、こん
な人気の無い所まで? と只でさえ99%の確立で逃げられそうなものを悲鳴
のオプションまでついたらどうしてくれる。俺なら確実に距離をとる。

痴漢の冤罪ってこの世で最も恐ろしい罪の一つなんだぜ・・・と全世界の諸兄に
力強い同意を得られるだろう呟きを漏らし、ふっと自嘲の笑みを浮かべたとこ
ろで、遠く揺れていたクリーム色の髪がふわりと止まったことに気が付いた。
・・・シュークリーム食いたい。とは彼女を見るたび思うことだが、今はそれより
もおにぎりが食べたい。ってあれ?


「――お兄ちゃん!」


うぁっはい! 

なんて俺が呼ばれたワケでも無いのに返事をしてしまいそうになる可憐な呼び
声、あぶないあぶない色んな意味であぶないと胸を押さえつつ目を細めて見る
と、女の子は屋敷の中ではなくこちらに背を向けたまま小さな門扉の前に立っ
ていた。どうやら使用人さん達が出入りする場所のようだ。

人気も無く静まり返ったそこで女の子がもう一度声をあげると、その濃いグリ
ーンに染められた木戸がギシリと開き、目にも鮮やかなレッドがひょこりと顔
を出した。

「――ルチェ」

女の子より頭一つ分高く、俺からも見えたその少年の顔は、うっすらと笑みを
刻んでいた。

・・・・ぇえっと・・・。

微笑む少年に向かい持っていた籠をかかげた女の子は、受け取った少年に頭を
撫でられくすぐったそうに首をすくめている。籠に被せられた布をめくった少
年は、嬉しそうに顔を綻ばせる。笑いながら一言二言ことばを交し合うその様
子は、どう見ても仲睦まじい兄妹のふれあいだった。

「・・・・・・・・・・・・・・」

・・・俺、何しにここまで来たんだっけ?

木陰にひそんで少年少女を見つめる俺ってナニ。と答えてはいけない問題に直
面し、おそるおそるその場を離れようとする。しかしやましい心の動揺を表す
ようにもつれた足がペキバキワシャッと生垣に突っ込み、俺は少年少女たちの
視界に間抜けな登場を果たすこととなった。消えたい。心の底から消えたい。

「――あっ、あなたは・・・!」

ふらついた俺を認めた瞬間ぴょんっと一度高く飛び跳ね、子ウサギが巣穴に逃
げ込むように少年の背中に回る少女。弁解も許さぬ逃げっぷり。

「―――――」

そして最悪な初対面となった少年はといえば一瞬眉を顰めたのち、こちらが驚
くようなスピードで顔色が青褪めついで俺も青褪めた。

待ってくれ少年それは誤解だ激しく誤解だ、俺はそんな怯えられるような極悪
人でも変質者でもないぞ・・・!

何をする前からピーンと張り詰めた空気に更に動揺し、俺はあわあわと服につ
いた葉っぱを落としながら引き攣った笑いを浮かべた。少年は後ずさった。完
全に逆効果だ。俺の笑顔は凶器ですか?

「いやあのごめんちょっと迷っちゃって邪魔する気はなかったんだけどアレき
 み使用人の子だよねっ、もう知ってると思うけど俺はユーシン此処で世話にな
 ってるんだよろしくッ」

「「・・・・・・・・・・・・」」

世界の終焉にも似た沈黙がこの場を支配している。

――もう終わった――と大地に膝をつきかけた瞬間、少年にそっと背中を押さ
れた少女がおずおずといった様子で口を開いた。

「・・・ご、ごあいさつが遅れてもうしわけありません。わ、わたしはルチェとい
 います、ユーシンさま・・・」

「――!!!」

酷く小さな声だったが、俺には神の福音にも勝る言葉だった。

「・・・・・オレはこいつの兄です。失礼をお許しください、ユーシン・セタ様」

続けて少年も硬い表情ながら言葉を返してくれ、俺は少年の発した台詞の違和
感など全く意に介さなかった。

「い、いや、俺のほうこそごめんね! せっかくの兄妹水入らずを・・・」

そのまま少年の袖口を握り締めて離さない女の子・ルチェに情けなく笑いかけ
れば、どうやら随分人見知りらしい彼女は顔を真っ赤にしてぷるぷると首を振
った。・・・ああ、何だこの胸のほんわり感・・・。

弟でも妹でもいいから下にきょうだい欲しかったな、とついまた少年の背中に
半分隠れてしまったルチェを眺めていると、未だ顔色の悪い少年の顔がますま
す強張っているような気がして慌てて顔を引き締めた。俺は断じてロリコンな
どではないぞ。

「――それじゃぁ、また――」

これ以上の墓穴は掘らない為にもさっさと退散しよう。そんな適切な判断の元
寄り添う兄妹に背を向ける。さて、厨房はどちらなのか・・・と左右に走る渡り廊
下に視線を走らせると、お手伝いのおばさんの声が響いた。

「――ルチェ、ルチェ、どこにいるんだい? ちょいと手を貸して・・・、・・・おや、
 ライチェじゃないか!何だい、いつも中でお待ちって言ってるのに―――」

何を考える前に後ろを振り向いた。

まだグリーンの扉の前に立っていた少年は真っ青な顔で俺を見ていた。

頭に巻いている赤いバンダナが不釣合いだなと思った。

少年の手から籠が落ちた。

「・・・ライチェ?」

声に出したかどうかも判らない俺の呟きが聞こえたように、少年は素早く身を
翻すとグリーンの扉から飛び出て行った。

「おにいちゃん?!」

驚いたルチェが揺れる扉に取りすがって、駆けていった少年を身を乗り出して
見つめている。

俺はその横を走り抜けざま籠を拾い上げると、「イバンさんによろしくッ」と叫
んで大追跡を開始した。



俺、肉体派じゃないのに。












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