第四十二話


久しぶりに夢を見た。

家族とテレビを見ている夢だった。


その頃はまだ健在だったお袋に「試験勉強しなさい」と怒られて目が覚める。
寝覚めが良いんだか悪いんだか微妙な気分で目を擦ろうとすると、右手はしっ
かりと固定されていて動かなかった。薄暗い部屋の中はまだ日が明けていない
らしく、頭を預けたゼートの肩から半身を起こそうとしたけれども、やっぱり
ゼートの眠りは浅かろうとそのままの体勢をキープする。ロウソクの火もいつ
の間にか消えてしまっていて、冷たく乾いた木と埃の匂いと、寒さを防ぐのに
は心もとないはずの二人で包まった白い布がとても気持ち良かった。手袋をし
ていることが多いゼートの手の平に長い間触れているのも久しぶりで、少しば
かり汗ばんでいたとしても繋いだ手を離す気にはなれなかった。

何だか可笑しな気分だった。
鼻をすすりあげた俺に思い切りよく手近な家具から白い布を引き剥がし、ぐる
ぐると巻きつけたゼートの行動も可笑しかったけれども、何故だかそのまま壁
際に座り込んで、ただ寄り添っていた時間が可笑しかった。

こんな風に身を寄せ合って眠りに就くのも、肩を並べて話をするのも。帝国へ
の短い旅路のさなかの様で、どうしてか、ゼートの屋敷で暮らすようになる前
のほうがゼートとの距離が近かったような気がして、懐かしくて、可笑しかっ
た。

「・・・・・・・・・・・・・・・・。」

・・・お、俺、もしかしてすげえ情緒不安定気味だったんじゃない?

昨日ゼートが帰って来た時も心の底から自分の情けなさを自覚したもんだが、
逃亡生活を懐かしむほど堕ちたつもりは無かったのでこの思考に愕然とする。
俺、本当にゼートが居なきゃ生きていけないんじゃないか・・・。

物理的な面ではあらゆる形で助けられているので今更だったが、もしかして自
分が思う以上に精神面での依存も深刻化しているように思えて危険信号が激し
く点滅する。

いくらゼートがこのままで良いって言ったって、俺も離れたくないって思った
って、一度爺さんの家に戻った時、爺さんの墓を前にして俺は何て思うんだろ
う。

ゼートは森を抜けなかったらしいから、ナアラ達が無事でいるのかも判らない。
まぁ、あのおっちゃんが約束を破るとも思えないし、爺さんの家が燃やされる
まできっと三日は過ぎていただろうから、ナアラ達は村でちゃんと保護されて
いるんだろう。

しかし、もしも本当に俺がこのまま此処で厄介になることにしたとして、ナア
ラやスカイ、マアノなんかは良いとしても、流石にヤギ達までは連れて来れな
いんじゃないか。

それに、それに、爺さんの墓参りなんかも簡単には出来なくなる。
爺さんの家はどれぐらい燃えてしまったんだろう。石積みの壁は残っているん
だろうか。爺さんの墓標は? それともいつか見た火事の現場みたいに、炭みた
いな柱しか残っていないんだろうか。そんな痛々しくて恐ろしい所に、爺さん
を残してしまうのか。

今、こんな風に考えていること自体、もう爺さんを切り捨てようとしているん
じゃないか?

「―――――」

――日本に居た頃、一人でいるのは嫌いじゃ無かった。
一人は気楽で心地よかった。

俺は判って無かったんだ。
自分の部屋に一人でいても、同じ家の中には家族が居る。
誰も居ない家の中でも、いずれ誰かが帰ってくる。
馴染んだものがそこらじゅうに転がっている。
いつも誰かと繋がっている。


ひとりっていうのは。


この世界で目覚めた瞬間。
爺さんが死んでしまったあの日。
爺さんの恐ろしく冷たい手。
森を出るまでの長い月。
誰も知らない言葉。
聞こえない言葉。

この世界だ。
この世界の俺だ。

知らなかった、

ひとりは、こんなに寂しい。

「・・・・ゼート・・・・」

起こしてしまうかと思ったけれど、起きても欲しいような気持ちで小さく名前
を呼んでみる。微かにかかる吐息は規則的に俺の髪をくすぐって、目覚める気
配は無かった。他人の呼吸がこんなに優しいことも、もしかしたら一生知るこ
とは無かったのかも知れない。それとも、そう思うのは、ゼートだからか。

「――――」

もう一度名前を呼んでみようとして、何だか勿体無くなってやっぱりやめる。
思い起こせばゼートより先に起きたのは初めてで、慎重に頭を上げた先、ゼー
トの寝顔を見るのも初めてだった。少し離れてしまっただけでも、息をしてい
るのか判らなくなるほど静かに眠っている。

それとは反対に繋いだままの手は熱いくらいで、不安に思うことは何も無い筈
なのに、俺は急に怖くなってゼートの顔を覗き込んだ。

ぎりぎりまで顔を近づけてみると、顔や唇の薄い皮膚はきちんとゼートの吐息
を感じ取る。もっとじっくり観察しようと身体をひねると、重みが増してしま
ったのか少しだけゼートが息をついた。うっすら開いた唇は少々荒れ気味で、
白く浮いた皮膚が邪魔なような可哀想なような、見つめた先でまたゼートが息
を吐く。俺はつい、本当につい、何を思うでもなく、そこに唇を重ねた。

――此処に来てから大幅に改善された食生活、俺の身体は隅々まで栄養がいき
わたって潤っている。森で暮らしていた頃、荒れているのは当然の事だったの
に、今ではすっかりツヤツヤだ。

ゼートは、いつも外で冷たい風に晒しているから、引きこもりの俺とは違って
こんなに荒れているんだろうか。

柔らかいのに薄く硬い、矛盾した感触にほんの少しだけ泣きそうになった。

「・・・・むはっ?!」

夢の中みたいにぼんやりした頭でゼートの唇を分析していた俺に、突如左方向
への引力が生じる。繋いだ右手に力が入り、体が傾いて左手をゼートの胸につ
いた。右手は繋がったまま引き寄せられ、背中から回された片腕でガッチリ拘
束される。目にも留まらぬ早業に間抜けな顔を晒すと、見上げたゼートの顔も
驚いたように俺を見下ろしていた。

「――・・・な、」

「・・・・・・・・・・・」

ぱかんと半開いた口から掠れた声が漏れ出て、少しだけゼートの腕から力が緩
む。え、これはもしや敵と間違われたとかそういった防御反応? と忘れがちに
なっていたゼートの禍々しさ漂う本業に血の気が引いたが、よく考えたら言い
訳のしようも無く寝込みを襲っていた己の所業に即行で血が逆流した。

そんな俺の罪を突きつけるかのように、目の前にはちょっと湿ったゼートの唇。

いわゆる犯罪証拠物件。

「――ごっ、ごごごごごめッ、ほんとごめっ、ちょっとした出来心でッ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

完全に犯罪者のセオリーな台詞が口をついて出て、この場から消滅したい気持
ち一杯になって小さく体をちぢこませる。性犯罪者なんてこの世のクズだ宇宙
のチリだダイアモンドダストだと壁に頭を打ち付けたい衝動に駆られたが、何
やら思案深げな表情で唇を舐めるさまを見せつけられ轟沈した。

「・・・っ?!!」

そして既に息も絶え絶えな俺に、一寸の容赦も無く連続コンボ。無表情のまま
降りてきた唇が、一瞬、ほんの一瞬僅かに綻んで、思わず無力化した隙をつか
れる。因果応報・・・!

「――っふ、」

――自業自得? それはね、この場合あまり適切では無いと思うんだ。
だって気持ち良いから。

「ん」

ハンムラビ法典からしてみるといささか釣り合っていないように思われるこの
反撃、俺は可愛らしくただくっ付けただけだったのに何ですかこの甘噛みは、
いらんオプション付けるな。と言いたいがしかし気持ち良い。

まどろみなんてお空の彼方、俺とは違う切れた皮膚の感触が背筋をぞくぞくさ
せる。挟み直されるたびにその感覚が生まれて、思いも寄らぬ展開と酸素不足
に頭はフラフラだ。再び重なるゼートの唇、合わせ目をなぞられても震えが走
るし、背中から後頭部に手をずらされただけで驚くほど体が跳ねた。いつの間
にか持ち上げられていた俺の右手とゼートの左手は体の間で強く握り直されて、
苦しくて頭が揺れるのにゼートを押しやることも出来ない。しようとも思えな
い。

むしろ、もっとずっと。

「――っは、ぁ、ぅんっ・・・・・」

・・・って違う違う、開くな口、吸うな馬鹿! いや吸ってるのは俺か?

丹念に唇を嬲られていた筈が気が付けばぬるりと口内に侵攻していて、言いよ
うの無い感触にハッと我に返る。

見開いても滲んだ視界に目をしばたかせたが、同じように開かれた青に気をと
られて引っ込めていた舌を引きずり出された。

「―――――っ!」

・・・何か言いたかったのかただ閉じたかったのか、動かそうとした唇はじんじん
痺れてまともに言うことを聞かない。まるで溺れているみたいに必死になって、
ゼートの胸元で握り締めていた左手をぐっとゼートの背中に回した。喘ぐよう
にさまよって、襟足まで手を伸ばしたら、囁くような吐息がゼートの唇から零
れた。

「―――――・・・・・」

そのざわめく感触にうっすら瞼を開くと、いつからかゼートは真っ青な瞳で俺
を見つめていた。それはどこまでもどこまでも真っ直ぐなブルーで、その透明
さに胸がつまった。

「っ――――」



そしてまたすぐ意識は波に呑み込まれて、言葉による朝の挨拶を交わせたのは
ずっと後のことだった。





*





「――なぁ・・・」

「・・・何だ」

「・・・・・悪いのは俺だけどさ・・・俺だけどさ・・・。あんたももうちょっと遠慮とか
 無いの・・・」

「・・・・・・・・・」

朝靄に沈んだ庭の中を、こそこそと使用人の皆様方に見つからないよう部屋に
戻る。満月から少し欠けただけの月は、暁が近づくにつれ色が薄れ今は穏やか
なオレンジ色に染まっていた。この世界の月色はどんなバイオリズムなんだ?

「う゛ー・・・・・」

「・・・・・・・・・・・」

きっかけは自分だ因果応報、文句を言う資格など無いとは思いつつもつい平然
としたゼートに当たる。

小屋から出たときもゼートは何でも無い顔をして俺の手を引こうとしてきたが、
濃い朝の挨拶を交わしていた最中にもずっと手は握られていたので、俺は到底
また手を繋ぐ気にはなれずにゼートの服の裾を握り締めた。

・・・これが、これが人生経験の差ってやつなのか。大人なんて、大人なんてちく
しょう。

靄に紛れた白い花から、バルコニーの手前に辿り着いたところでゼートの服
から手を離す。

手からすり抜けていった服の裾を目で追うと、それは流れるように弧を描いて
俺を振り返った。

「・・・遠慮など」

そのままするりと頬を撫でられ、自然な動きで顎を持たれる。
覚えのある角度に思わず身構えると、一度親指で撫でてから囁かれた。

「――許したのは、お前だろう?」

息も触れそうな距離で落とされたそれに、耳鳴りがするほど頭が沸く。

グラグラとした頭で何か言い返そうと口を開けば、本当にすぐそばにゼートの
顔があって、それにまた言葉が呑み込まれれば、その全てが、まるでスローモー
ションみたいにゆっくり見えた。

・・・俺と同じでどこか違う、触り心地の良い黒髪が乱れて目元を露にしている。
ほんの少し顔が傾けられて、前髪がやわらかになびく。その下で細められた青
い瞳に、そして背後に浮かぶ月みたいな穏やかな顔に、俺は思わず泣きそうに
なってとっさに下手な笑いを浮かべた。

ああ本当に本当に本当に俺は。


「・・・そんなの、頭に花くっつけて言う台詞じゃねーな!」

ほんの少し声は震えてしまってけれども、思わずと言った様子で髪に手をやっ
たゼートに今度は本気の笑いが混じる。朝露の重みで垂れた枝に、先導したゼ
ートの髪にはいくつもの白い小花が絡んでいた。

「・・・かわいー」

「・・・・・・・・・・」

ゼートにはアンバランスに思えるその可愛らしい花も、ふるっと頭を振りなが
ら不満そうにしているゼートには妙に似合って見える。

俺は全ての花が落とされる前にゼートの髪に手を伸ばすと、もっとよく絡まる
ようにワザとぐしゃぐしゃに掻き回した。

「・・・・ユーシン・・・」

俺の両腕をがしっと掴んで、見下ろしたゼートが低い声で俺の名前を呼ぶ。

あの深く冷たい霧ではなく、今俺たちを囲うのは朝靄と白い花だけども、空に
浮かぶのはあの冷たい色の月ではなく、穏やかなオレンジ色の月だけども、こ
の朝と似たあの朝、もう二度と会うことは無いんだろうと思った人間とこうし
てまた向かい合っている。あの時は知らなかった名前を今俺は呼ぶことが出来
る。この男も俺の名前を今はちゃんと呼んでいる。離れていくのではなく同じ
場所に帰ってくる。いつでも呼びかければ応えが返ってくる。触れることも、
触れられることも許される、そんな風に思える、そんな今が、どうしようもな
いほど幸運で幸福なんじゃないかと思った。

「・・・ゼート、」

ふいに思い出されたディルクのあの嫌な笑顔、あいつの言った通りになるのか
と思うととてつもなく微妙で業腹だったが、先にやらかしてしまったのは俺だ
し、それをまたちょっと考えただけでやり返しちゃった人間がゼートで、今も
自然に唇を重ねちゃっているワケだから、つまり、そういうことなんだろう。

俺もゼートも男同士ですよ、それどころか俺はあらゆる意味でゼートとは住む
世界の違うUMAで一般庶民ですよ、問題山積みですよ、とこの人生のありえ
なさ加減にはいい加減うんざりだけども。

ゼートがこうしたいと思って、俺もそれが嫌じゃないどころか先手を打ててし
まうくらいで、むしろこんな風に、いつでも触れることが出来るなら。

体温も呼吸も心臓の鼓動も、感じ取れるくらい近くにいたいから。

「――――――」

他の事なんて関係ない、どうして今まで気付かなかったのかと思うくらいの
込み上げる気持ちを吹き込むように、少しだけ離れたゼートの唇に囁いた。

「――・・・好きだよ」

零れるようなゼートの微笑が、全てだと思った。










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