第四十一話


あーもうちくしょう鼻水出てきた。

何だかもう堪らなくなってこの野郎こんちくしょうという心持ちのままにゼー
トの肩に顔を埋めた俺、ちょっと引っ込みがつかなくなって困ってます。

いえ、良いんですよ。ゼートさんは大きいので冬も初めな今には丁度良い熱源
ですよ? しかしですね、何と言いますかね、言うには憚られる現在の体勢がど
うもですね、宜しくないんですね。常識的に。俺の心臓的に。

ずびずび鼻を鳴らしていた間はむしろその温かさが心底ありがたかったんだが、
いやそれはそれで大問題なんだが、空気が落ち着いてくるとどうもこの異常さ
が際立ってくるというか。


は、離れるタイミングはいつだ。


というかゼート、ゼート、ちょ、ま、撫でるな、撫でないで下さい背中。もう
良いから。全力でもう良いから。これからの俺は鋼の精神を貫くから、漢の中
の漢を目指すから。だから、だから、ヒッ!?

身を捩じらせて離れようとした瞬間、ゼートの手が脇腹を撫で上げて思わず悲
鳴が漏れる。

おおおお俺、違う意味で本格的に泣き出しそうなんですけど、と必死の眼差し
でゼートを見上げると、ゼートはそんな俺をナチュラルにスルーして俺の頬に
手の甲を滑らせた。おわわわ何だ何だこの流れ。

「――・・・・・・」

まさかのホームレス宣告をされたときよりも混乱している俺を尻目に、確かめ
るように何度も俺の頬を撫で続けていたゼートが、ぽつりと俺の名前を呟く。

「・・・ユーシン」

さっさと返事なりなんなりすれば良いのに、俺の舌はその役目を忘れて凍り付
いている。心臓が無意味にシャウトしている。

「ユーシン」

早く何か喋らないと、この空気をどうにかしなきゃいけないのに、俺の舌はま
だ動かない。両頬を包み込まれる。

やばいやばいやばいやばい「・・・・・すまない」やばいやばいやばい―――

「すまない」

やばいやばいやば―――・・・


い?


近づいた顔に耐え切れなくなって目を瞑った途端、こつりと額がぶつかって小
さく囁かれる。は? と目を開けてみれば目を伏せたゼートの顔が未だかつて無
い近距離で静止していて、ぇえいやそれは流れ的にありえないだろっつーか何
謝ってんのっつーか今俺は何を考えた? と意識が飛んだ。

ふぅ、と息を吐いたゼートが、眉を顰めて体を離す。

大きく隙間の開いた距離に、ひやりと寒気を覚えた。

「・・・・・・なんでゼートが謝んの?」

ゼートに駄々こねて泣きついて肩を変色させた俺こそ今ここで謝るべきだと思
うんですが。そして変なコト考えちゃったことをお袋に土下座して謝るべきだ
と思うんですが。

意味の判らない謝罪はただ不安を煽られるだけで、もしやまだ何かあるのかと
物憂げな目を向けてくるゼートに身構える。
・・・・・・・・・・・・。


「いやそこまで言って黙秘はナシだよ?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


もういい加減言葉の足りないゼートに遠慮していては道は開けないと学習して
きたので、いつもより強めに先を促す。そう、もう俺はこの長いようで短く、
しかし濃縮されたゼートとの付き合いで「無口には雄弁に攻めろ」という格言
を会得した。俺まで黙ってはサウンドオブサイレンス。

「・・・・・・・・判っていた」

だからもっと主語述語修飾語を活用して、と突っ込みたい気持ちをぐっと堪え、
静かに耳を傾ける。

「私はきっと判っていた。何処かで、こうなる事を」

一度唇を引き結んで、俺の湿り気の残る頬と顎をこする。
冷たい乾燥した空気に皮膚が痛んだが、ゼートの方が痛そうだった。

「・・・おそらくはその痕跡を消す為に、或いは只の腹癒せにか、どちらにしろ
 容易く予想出来た事だ」

だから。何が。

――と説明文の作り方について指導したくなったが、伊達に小中高と顔も知ら
ない作者の心情を推し量ってきた一応現役大学生には軽く理解出来るコトだっ
た。

つまりゼートは、俺の、爺さんの家を、みすみす焼失させてしまったコトを詫
びているんだろう。俺が怒りの余り無言になっているとでも思ったのか、どん
どん言葉数も増えてきている。・・・あれ、これはちょっと使える手かも?

「・・・お前がこれだけ心痛めたというのに、私は何も策を講じなかった。予想が
 現実のものとなった時点でも、何も感じはしなかった。いや、微かに惜しむ
 気持ちはあったが、何も後悔などしなかったのだ」

うん、そりゃまあ、他人の家だし。そもそもこんなお屋敷に住んでる人間にと
っては只の小屋も同然だったろうし。少しでも惜しんでくれてありがとうゼー
ト、その気持ちだけで十分だ。

・・・それに、そんな限りなくもしもの話で労力を割ける程、ゼートは暇なんかじゃ
無かったろう? 当事者たる俺だってそこまで気が回らなかったし、気付いても
きっとどうしようも無かった。本来なら、家主である俺がどうにかしなきゃな
らなかったのに。爺さんから譲り受けたのは、この俺だったのに。ゼートが謝
るコトなんて何も無い。何も無い。


少しだけ、グチャリとしたものが腹の底に落ちたことは絶対に秘密だけど。


本当に俺は自分本位な人間だ、いやこの汚さこそ人間の証、などと内心溜息を
吐くと、ゼートがぽつりと呟いた。

「今は、後悔している」

とても、と言って、ゼートは自分の左肩を握り締めた。

「――――・・・・・・」

・・・なんというか、むずがゆいなあ。

俺の涙と鼻から出た液体とでジットリ濡れた肩を、ゼートは忌々しげに掴んで
いる。その忌々しさはきっと濡れた不快な感触にでは無くて、俺は腹を撫で上
げられるようなこそばゆさを感じた。・・・・いや、コレで本当は肩を濡らされた
コトによる後悔だとしたら俺ちょっと本気で泣いちゃうけど。

「―――ゼート、」

自分でも驚くような優しげな声が出たが、どこか小さな子どものように瞳を伏
せていたゼートには丁度良かったのかも知れない。

ゆっくりと顔を上げたゼートの、藍色に沈んでいた瞳にロウソクの灯りが差し
込んで、一瞬だけ朝焼けみたいな色になった。

ああ、やっぱり俺、あんたの目、好きだなあ。

「――前にも言っただろ。あんたが謝るコトなんて何も無いんだ。俺は本当に、
 あんたに感謝してるんだ」

シャイで有名な日本男児に何度も言わせるなよ。

「何があったって、ずっと、この気持ちは変わらないよ」

告げた途端、なぜか横っ面を張り倒されたような顔をしたゼートに俺もびっく
りしてしまったが、直ぐにまたぐっと唇を歪めたのを見て「ああもう生真面目
な兄さんだな」とげっそりする。

「・・・・だからー、悪いのは全部火ィつけたおっさんであってー、ゼートが負い
 目感じる必要は無いんだってば」

「違う」

「違わない」

「違う」

「違わない!」

「違う。それだけではない。今、悔やみはしたが、お前に言った気持ちは少し
 も変わらない」

「ハア?!」

「この屋敷に住めば良いと」

「・・・はあ?」

「これでは、もはや帰れはしないだろうと。これでお前は、このままこの屋敷
 に留まるだろうと」

「・・・・・・・・・・」

予想外の方向へ曲がった流れに、思わず勢いを殺がれる。
動きの止まった俺にゼートは一度言葉を途切れさせたが、そっと息を吐いて顔
を上げた。

いっそスッキリしたような、どこか諦めた顔。

「――そう、思った。何よりも先に、そう思ったのだ」




「・・・それでも、私を許すのか」

「――――――」

――あれ、今世界止まった?

もはや何も言葉にならず、長い長い沈黙がゼートと俺の間を包み込む。
が、ふいに訝しげな目をしたゼートが俺の顔を覗き込もうとしたのを敏感に察
知し、俺は素早く顔を伏せた。

なぜなら。

「・・・・・ユーシン?」

ああもうそうだよアンタはそういう男だったよ。

覗き込もうとするゼートと隠そうとする俺の無言の攻防。耳まで熱くなってい
るのが自分でも判り、何が何でも逃げ切ろうと正面からゼートを羽交い絞めに
する。――くっそ、煩いんだよ心臓、熱いんだよ顔面。静まれ俺の心。こいつ
の言葉に深い意味なんか無いんだ、いつでもどこでも直球なんだ。会話の不自
由な男なんだ! つーかなんでこんなパニクってんだよ俺、なんで、なんで、

「・・・・ユーシン」

何としても赤くなっているだろう顔を隠すためにしがみ付いた俺を、更にゼー
トが強く抱き締める。ああきっともう絶対にバレている、だって俺の体はこん
なに熱い。

「―――あんたはっ」

さっきから自分がどれだけヤバい台詞を吐いているのか自覚してるのか? ぶ
っちゃけギリギリアウトだこの野郎。会話は受け手の心情に配慮して言葉を選
べよ馬鹿野郎。最初っからそうだ、俺ばかりがアンタの言葉に振り回されて、
今だってアンタの体はちっとも熱くない。いい加減自分の言葉がどれだけ影響
力持ってるのか自覚すれば良いんだ。俺がどれだけアンタに感謝してるのか、
俺がどれだけアンタに救われたのか、俺がどれだけアンタに依存してるのか。
アンタが人を殺したことがあっても、これからも人を殺しても。何かを、俺、
を、見捨てたとしても。

「――それで、俺になんて言って欲しいんだよ・・・・なんだよ、怒るポイントが
 わかんねーよ!いい加減わかれよっ、自覚しろよ自信持てよ!アンタにそう
 思われて嫌なワケ無いだろ、嬉しいに決まってんだろッ」

何度も何度も言わせるなよ。俺を泣かせたいのかよ。もう泣いてますよ。

「・・・・俺のこと、試してんのかよ・・・」

どうして俺が、アンタを嫌えるって言うんだよ。

そのアンタからそこまで言われて、もう一人で森に帰りたいなんて言えるかよ。
どうしてくれるんだよ。引きずり出さないでくれよ。爺さん、爺さんに、あん
なに世話になったのに。



寂しいんだよ。



「俺だって、」

この世界に俺は一人なんだ。誰もいないんだ。お袋も親父も姉ちゃんも友達も
誰もいないんだ。誰も知らないんだ。おっちゃんおばちゃんじゃ駄目なんだ、
マーノ、ナアラ、スカイでも駄目なんだ。もっと、もっと近いヒトが欲しいん
だ。もっと、近くにいて欲しいんだ。


「俺だって、アンタと一緒にいたいよ・・・・!」







――しがみ付いて、抱き締められて。名前を呼ばれて、俺も名前を呼ぶ。


判ってたんだ。きっと、この場所から離れられなくなるんじゃないかって。
怖かったんだ。もう、あの暮らしに耐えられなくなるんじゃないかって。
怖かったんだ。爺さんとの約束を、簡単に捨ててしまえそうで。


怖かったんだ。
こんな風に、受け入れられることが。


「―――ユーシン」



ゼートから切り捨てて貰わなきゃ、到底、戻れやしなかったのに。















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