第三十八話



「―――――やべッ、今何時だっ?!」


俺は寝起きとは思えない程の瞬発力の良さでベッドから飛び起きた。

いや、いつの間に俺ベッドに? と思わないでもなかったが、そんなことは今更
なのでこの波乱万丈な異世界生活で培ってきたスルースキルを活用。

わー、差し込む夕日に照らされて、庭がキラキラきれいだなー。

「・・・・・・・・・・・・・・・。」

もう完璧ドタキャンだこれ。

「ごめんゼートほんとごめんだらしない男でほんとごめん」

数分ベッドの上で懺悔し、俺は溜息を吐きながら窓辺へと近づいた。庭の白い
小さな花々は淡いオレンジ色に染まっていて、綺麗な霞のようだ。とても暖か
そうな風景だが、やはり外は気温が下がってきているようで、窓には結露が浮
かんでいる。

「・・・・・・・・・・ついやってしまう行動ベスト100。結露に落書き」

それに両手で足跡の形を描きながら、俺はきっと帰ってしまっただろう美容師
さんに思いを馳せた。こちらから出張サービス頼んでおいて寝潰すとかもう有
り得ないよ。俺の人間性が疑われるよ。きっとイバンさんから「ユーシン様は
お休みになられておりますので、また後日に」とか言われて丁重にご帰宅願っ
たに違いない。その時の美容師さんの心情を考えるに、後日のこのこ散髪など
頼んだら俺の命は無いんじゃないか。ハサミは列記とした凶器だ。


黙々と足跡を増やし窓ガラス横断を達成し終えた俺が振り向いたのは、それか
ら数分後のことだった。


振り向いた先のテーブルセット、そこの一番大きなソファーに腰掛ける人物を
発見し、呼吸停止から立ち直ったのは更に数分後のことだった。


「・・・・ユーシン・セタ、くん? 」

「――っな!? あっ、だッ!?」

「僕はデ・ゲエナのライチェです。セタくん、髪を切る前にまず深呼吸しようか」

「―――――!!?」

この世界で初めて目にする眼鏡をかけた男は、穏やかな口調で名を名乗った。
それは、今日俺が髪を切って貰う予定だった美容師の名前。

なんで美容師が不法侵入してるのかは知らないがな。

「な、なんでここに」

俺がどもりながら尋ねると、美容師は少し申し訳なさそうな顔をした。

「セタくんは少し休んでいると聞いたものだから、ならお見舞いでも、と思っ
 たんだけれどね?」

軽く横に顔を傾けたので、後ろで縛られた見事な長い金髪が小さく揺れる。

「・・・どうやらいつの間にかうたたねしてしまったみたいで・・・」

驚かせて申し訳なかったね、と眉を下げた男を、俺は微妙な顔で見つめた。

「・・・・いえ。俺の方こそ、すいませんでした」

「それは構わないけれど。セタくんの体の具合はもう良いのかい?」

「もう全然問題無いです」

「そう? なら、今から仕事を始めさせて貰っても構わないかな」

「・・・・じゃ、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく」

目尻を下げるようにして笑った美容師は、無駄の無い動作で準備を進めた。
洗面台の前に椅子を置いて、俺が鏡を見れるように調整している。

俺はそれを手持ち無沙汰に眺めながら、何となく、ゼートはそろそろ帰っては
来ないだろうかと考えていた。

「さ、こちらにどうぞ」

椅子に座ると、真正面のそんなに大きくない洗面台の鏡に俺が映る。一番長い
所は肩に届いていて、邪魔な前髪は適当に分けられていた。まさに絵に描いた
ような無精者。ヒゲが無いのが唯一の救いか。

「今日はどんな風に切ろうか?」

「あー、そうですね、適当にサッパリする感じでお願いします」

「はは、それは難しい注文だね」

まるで普通の美容室で展開するような会話が淡々と進んでいく。かつて行きつ
けだった美容室とちっとも変わらない美容師さんの態度に、俺は早々にリラッ
クスして美容師さんの真剣な横顔を鏡越しに眺めた。

頬にかかったうねる金髪から、微笑んだままの口元が覗く。

「――後ろはこれくらいの長さで良いかな」

「あ、はい。もう全然大丈夫です。流石」

「ははっ、まだ完成には程遠いよ?」

「いやいや、なんか美容師さん売れっ子っぽいし。今日も予約でいっぱいだっ
 たんじゃないですか」

「いえいえ、そんなことないですよ?」

「その笑顔が肯定してますって。やっぱり俺が伺うべきでしたよね、そのデ・
 ゲエナ? 名前からして高級店な」

「―――――」

小気味良いリズムで動いていたハサミがシャキリ、と止まった。

何だと思って目線を上げてみれば、鏡の中の真っ青な目が俺を注視していた。

「・・・どうか、しました?」

唐突な沈黙に軽くビビりつつ問いかければ、ひとつ瞬いた美容師さんは済まな
さそうに目を細めた。

「――ああ、ごめんね。まさかそんなことを聞かれるとは思っても無くて。少
 し驚いてしまった」

止まっていたハサミを洗面台に置いて、ゆっくりと櫛を通していく。

「・・・デ・ゲエナというのはね、店の名前では無いんだ。所謂、貧民窟とでも言
 うのかな――」

頭皮を櫛の歯が掠って、背筋がぞわりと粟立った。

「――他国の人間からはね、〈バルバラの魔窟〉と呼ばれているよ」

にこり、と笑って櫛を戻されたが、俺は何とも言えない居心地の悪さに目をそ
らした。魔窟って。

「デ・ゲエナの出身者はね、家名を持っていないんだ。だから、家名の代わり
 にその名を名乗る」

あの街は特別だから、と呟いた美容師さんは、笑いながらハサミを動かした。

「・・・・・・・・・・・・」

・・・いやいやいや。いやいやいや貧民窟とか魔窟とか何ですかそのダークネス
な単語は。何かすげえ爽やかに語りましたけどつまりそう名乗った貴方はそこ
の出身者ですよってコトでファイナルアンサー?

聞き慣れないどころか平和的な一地方都市出身者にとって、生まれて初めて目に
するアンダーグラウンドの住人を穴が開くほど凝視する俺。

まるで絵本に出てくる王子様のような姿の美容師さんは、到底、貧民窟という
所の出身には見えなかった。

器用そうな長い指先。傷一つ無い。

「・・・ところで、セタくんは――・・・」

何事かを言いかけた美容師さんの言葉を遮るように、凄まじい音が背後から響
いた。美容師さんの恐るべき経歴にドン引きしていた俺も、ぎょっとして後ろ
を振り向く。


―――魔王がいた。


ディルクなんてパチモンじゃない、本物の魔王がそこにいた。


「・・・・・・ゼー、ト・・・・?」

無意識に口から零れ出た言葉に、これもまた初めて見る呼吸を乱した魔王、も
といゼートが軋むような眼差しで俺を射抜く。
ひぃッと息の根を止めかけられた所で、俺はその一瞥が俺に向けられたもので
は無いことに気が付いた。

「―――・・・何を・・・・」

一度大きく息を吸い込んだゼートの口から、押さえ込んだような低音が吐き出
される。下手に怒鳴られるよりも余程恐ろしいその声色に、直撃を受けたワケ
ではない俺が瀕死状態に陥っていた。流石、魔王の吐息。効果はパーティ全体
に及ぶのか。

しかし、俺の横に立つその対象であるハズの男は、まったくの効果無しと言っ
た様子でにこやかに返答した。

「・・・おや、思ったよりも早かったね。仕事はちゃんと済まして来たのかい?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

何というツワモノ、何という猛者。お前の目にあの凍り付いた瞳は映ってはい
ないのか。

「・・・・・此処で、お前が、何をしている」

「はは、見ての通りだけれど?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「――ほら。ね?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

誰か助けて。

機械的なゼートの問いかけにも、朗らかに笑った美容師さんはポンと軽く俺の肩
に手を置いた。その瞬間、空間が捩れるような寒々とした眼差しが今度は確実
に俺の顔を射抜く。そして確実に俺の命が縮んだ数秒後、ゆっくりと扉から離
れたゼートを見て、俺は慌てて椅子ごと美容師から身を離した。もう敬称など
付けていられるものか。

人の良さそうだった美容師の顔が、まるで変わって見える。

近づいてくるゼートにまた笑った美容師は、するりと眼鏡を外して俺を眺めた。

底の抜けたような、青。

「中々のものだとは思わないかい。初めてにしては」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

なんだって?

ぎょっとして目を見開いた俺に、愉快そうに目を細めた美容師が俺の髪を持ち
上げた。そして何度か自分の仕事ぶりを確かめるように視線を這わせ、「綺麗
なものだ」とにっこり笑う。

・・・いやいやいや、そんな笑顔に騙されたりはしませんよ。顔だけで世間渡って
けると思ったら大間違いですよ。自画自賛なんて痛さ割り増し。

「は、初めてって、ちょっとおかしくないですか貴方」

「うーん。そうかな?」

「当ったり前だろ!卵か!見習いか?!だから怒ってんのゼート!?」

「あっはははははッ、面白い子だねえ君」

それが本性かこの腹黒。気のせいなんかじゃなくガラリと変貌したエセ美容師
に、俺の心が切なく震える。

「マジ、あんた何――」


ペーペーの分際でこの俺の髪を切ろうなんざ良い度胸じゃねえか。とまでは言
わないが、近付いて来たゼートを振り返り「代金踏み倒しても良いですか?」
と訴えようとした所で、伸びてきた黒い腕に囲われて視界がシャットダウンし
た。


「・・・・・・・フォルカーが探している。早く戻れ」

「嫌だな、そんな目で見ないでも彼には何もしていないし何も」

「早く、戻れ」

「―――・・・・。・・・ふ、そうだね。フォルカーに泣かれると面倒だ、」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


振り向いた途端に頭を抱え込まれ、こもった音だけが耳に入り込んでくる。
ゼート、と口を開こうとして、力の篭った腕に何故か声には出せなかった。


「それじゃあ、今度は彼も連れて遊びにおいで。美味しいお菓子と綺麗な花を
 用意して待ってるよ」


またね、と立ち去りざま俺の髪を撫ぜたエセ美容師に、ゼートの腕がはっきり
と強張ったのが判った。












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