第三十七・五話


ディルクを見送った後、何となく食欲減退してしまった俺は、申し訳無い気持
ちで一杯だったが朝食を少し残してしまった。ああ、森の倹約生活はどこへ。
人間が贅沢に慣れるスピードは貧乏のおよそ三倍。

イバンさんが心配そうな顔で「どこかお体の具合でも?」と言ってくれたが、
お体に問題は全く無いので医者を呼びそうなイバンさんを慌てて引き止める。

イバンさんは厳しい目で俺の顔を見つめていたが、むしろその眼差しに具合が
悪くなりそうな俺に気が付いてくれたのか、仕方なくといった様子でお手伝い
さんを呼んだ。

「ユーシン様に何か暖かいお飲み物を」

呼ばれてきたのは穏やかな瞳の老婦人。その人はイバンさんに頷いてから、や
っぱり俺を心配そうな顔で見やった。

「・・・どこかお加減でも悪くなさって?」

「え、や、そんなこと無いです。大丈夫です。ありがとう」

俺が頭を下げると、老婦人は少し不思議そうな顔をしてゆったり微笑んだ。

「もう少し、火も足しておきましょうね」

そう言って、部屋を出て行く前に暖炉へと足を向ける。それをイバンさんは軽
く制して、老婦人の手から火掻き棒を抜き取った。そのやりとりを見て、俺は
何となくこの二人は夫婦なんじゃないかと思った。


・・・俺が森を離れてからもう一ヶ月、森は今頃霜が降りて、一足早い冬に染まっ
ていることだろう。ここも、もうそろそろ本格的な冬らしい。


ソファーに座って、去年の雪景色の中を駆け回っていたマーノの姿を思い返し
ていた俺を、イバンさんは何とも言えない顔で見つめていた。

「・・・・ユーシン様。せめて、横になられては如何でしょうか」

そう言って、本物の雪のように白くけぶる庭を眺め続ける俺の膝に、あの艶々
シットリな白い毛布をそっとかけてくる。イバンさんの前で行儀が悪いとは思
いつつも、俺はソレをかけられるままソファーにゴロリと横になった。


――――。


―――ユーシン―――



遠くから、爺さんの声が微かに響く。


目を瞑れば、最後に見た爺さんの顔が浮かんだ。


『――ユーシン』


爺さん。

もうすぐ、全部、全部終わるよ。

爺さんがずっと逃げていたブラウリオも、公爵家も、全部無くなるってさ。
爺さんを責める人間は、どこにも居なくなる。
あの公子様だって、もう爺さんを責めたりはしないだろう。

なあ。

『ユーシン』

爺さん。

「・・・ユーシン様?」

目を閉じた俺を気遣うような小さな声に、パチリと瞼を開けてその声の主を
見る。

目の前には、湯気の立ったカップを持った心配そうなイバンさんがいた。

「・・・・あー、ありがとうございます・・・」

思ったより重い体を起こして受け取ろうとするが、首を振られてずり落ちた毛
布を直される。正直何かを口に入れる気分ではなかったので、俺はそれに甘え
て本格的に昼寝の体勢に入った。あぁもう自堕落万歳。


「・・・・旦那様は、夕食の前にはお帰りになられるそうですよ」


微笑むイバンさんが、薄雲越しのぬるい日差しを見る。


その空気に、俺はなんだか物凄く自分は大切にされているんじゃないかと錯覚
のように思った。



『―――ユーシン』



『―――ユーシン、そら、私の手を握ってごらん』


『ああ、暖かいね』


『・・・・・・・・しばらく、こうしていようか』




あのさらりと乾いた手の温もりが、今、全身を包んでいる気がする。

音も無く降り注ぐ日差しと白い視界のなかで、俺は静かに瞼を閉じた。







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