第三十六話


「――――・・・・・・・・・」

数分、静まり返ったゼートの部屋でぼんやりとしていたが、俺は次第に口の端
がニヤァっと吊り上っていくのを感じた。

「・・・お宅、拝見?」

ゼートは芸能人でも有名人でもない、それどころか地下に潜る暗躍がお仕事の
人だけど、これはもう見ない方が失礼というものだ。それが世の習いだ。
この世界にエロ本などがあるのかは知らない、だがそれに準するものはきっと
あるはずだ。それが世の習いだ。

俺は手始めに寝室の方へと足を向けると、定番中の定番、ベッドの下をすかさ
ず覗きこんだ。


「――すげえ・・・・!」


床に届くほどの上掛けを捲り上げた俺は、思わず声を上げて奥まで顔を突っ込
んでしまった。すごい、すごすぎる。姉ちゃんが嫁に行ってからお袋を亡くし、
あまつさえ森の中で一人暮らしを営んでいた俺には、このすごさは痛いほど良
く判る。


こんなだだっ広い屋敷の中、死角とも言える寝台の下なのに、塵一つ落ちては
いない。


腕を差し入れてなぞってみたが、臙脂色の袖はどことなく薄くなったかな?と
いう程度で、ホコリなど一欠けらも付着しなかった。

「・・・・・すげえ・・・・・」

この屋敷で掃除洗濯その他諸々を担当しているのは数少ないお手伝いさんの
方々だ。俺の知る限り、後一歩で老年に差し掛かろうかといった品の良いご婦
人が一人と、俺のお袋よりは年上と思われるおばさんが三人、それにまだ幼さ
が残る女の子が一人と、五人しかいない。そんな少ない女手でここまで行き届
いた清掃が行えるとは、まさにプロフェッショナル&ベリーファンタスティック。
こんな身近にファンタジスタ。


深い感嘆の溜息とともに体を戻しかけた俺は、背後から響いた小さな靴音に、
寝台の縁に思いっきり頭を打ち付けてしまった。


「・・・・・・・・お前は、何を・・・・・・・」


痛すぎる後頭部を押さえて悶絶する俺に、呆れの感情が溢れるほど滲んだ声が
小さく落ちてくる。その内容を理解出来る前に、痛みで意識が分散してしまっ
て声も出せない。不気味な唸り声を発し続ける俺を、今度こそゼートは後ろか
ら持ち上げて正面のベッドに乗せた。

「・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・」

俺がうつ伏せのままで微動だにしないのは、この断続的に脈打つ鈍痛のせいで
あって、決して家捜しがバレてしまったからではない。

「―――・・・・、」

ひとつ溜息をついたゼートは、無言のまま俺の後頭部をさすってくれた。

・・・何だ、俺の罪悪感を刺激する作戦か? 人は時に沈黙が何よりの呵責になる
と知っての行動なのか。・・・すいません普通に自業自得です。


上手い打開策など思いつく筈もなく、身を固くして押し黙る俺。


「・・・・何か、面白い物でも見つけたか?」

けれど、ゼートは微かな笑いを含ませながら軽く頭を叩いてくれた。
その暖かな手の平と、何のお咎めも無い息苦しさに、もぞもぞと身を起こして
ベッドの上に正座してみる。まずは形から反省の気持ちを表してみよう、うん。

「・・・・・・・えぇと、ゼートは大変に素晴らしいお手伝いさんをお持ちでいらっし
 ゃいますね。ということが判りました」

ベッドに腰掛けたゼートから流れるシーツの皺を凝視しながら語る俺に、ゼー
トは小さく呼気を漏らす。そろっと顔を上げて見てみれば、なんとゼートが笑
いを噛み殺すように口を押さえていた。

「――も、申し訳ありませんでした・・・・?」

とりあえず両手を前に伸ばして平伏してみたが、自分でも全く心が篭もってい
ないことが判る。べたりと体を倒しながらも、俺の心は驚きの気持ちで一杯だ
った。

だって、あの、セラミック合金みたいなゼートが笑った。笑った。クララが立
った。言い過ぎた。

そりゃ今までも笑ってたって言えば笑ってたんだけど、ハッキリ言って一般的
レベルの微笑には遠く及ばないレベルの笑いだったし、あんな誰の眼から見て
も「あ、こいつ今笑ってる」とか判るような状態になったことなんて無かった。
目を細めるとか口の端を薄く上げるのでもなくて、ちゃんとしっかり笑ってい
る。

何だか良く判らないが、心の中で「おお〜」と声を上げていると、コツリと頭
に何かが当たってじわりとそこが熱くなった。

「ぉおっ?」

反射的に身を起こせば、ゼートが左手をひょいと上げて俺を見ている。
何となくほっとした様な顔のゼートに疑問を抱きつつも、その手の先に視線を
移すと、ゼートの左手には大きくて白いマグカップが握られていた。

「何それ?」

プライベートの権利を甚だしく侵害した俺を怒るでも無いゼートに、速攻で正
座を崩してにじり寄る。これはもう無かったコトにしろという天の啓示に違い
ない。ありがとう神様。

腕を下ろしたゼートにとりあえず中身を覗き込んでみると、なみなみと注がれ
ているのは乳白色の液体だった。

「何これ?」

「山羊では無いが、牛の乳を温めたものだ」

「いやそれは良いんだけど、さっきはコレをわざわざ取りに行ったの?」

不可解なゼートの行動に眉をひそめると、ゼートはカップに視線を落として小
さく呟いた。

「・・・・・これを飲めば、お前の気も落ち着くだろうと」

は?

頭からすぽーんと何かが飛び抜けた感覚がして、俺の目が大きく見開かれる。

そんな俺を置いてけぼりにして、ゼートは思い出すように目を細めた。

「あの夜は、とても良く眠れたからな」

「・・・あの夜って、あの?」

「ああ」

「―――――」

・・・ええと、じゃあ何ですか、コレはあの夜俺が出したホットミルクの再現とい
うことですか?

つまり、自分はコレを飲んでとても落ち着いたりしちゃったので、凹んで泣いて
むっつりした俺をコレで宥めようと、そう思ったと。

そういうことでファイナルアンサー?

「って何だその発想?!」

俺が思わず声に出してベッドに突っ伏すと、ゼートが手近な椅子の上にカップ
を置いた。

「・・・・気に入らなかったか、」

「ぇえッ!? や、そんなことないよ美味しいよ大好き!」

ゼートがどことなく声を落として問いかけてきたので、俺は反射的にテンショ
ンを上げて素早くカップを手に取った。まだ口もつけていないのに、大仰な仕草
で褒め称える。もっとマシな反応は出来なかったのか俺。

「そうか」

それでも、ゼートはほっとしたように唇を上げた。

「・・・・・・・・・・、」

何だろう。何か本当に体中がポカポカしてきた気がするんだけど。

俺はその不思議な感覚に首を傾げながら、微かに湯気を立てる白いカップに口
をつけた。丁度良い温度と、ほのかな甘みが口一杯に広がっていく。
ああ、ゼート、俺が猫舌だってこと覚えててくれたんだな。

俺は自然と緩んでくる頬もそのままに、最後の一滴まで綺麗に飲み干した。


「・・・・・これ、ほんと落ち着くわ・・・」


ゼートはまた小さく笑うと、乱れた俺の髪を優しく梳いた。





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