第三十五話


さわ、と前髪が額に掠れて、俺はくすぐったさに顔を歪めた。

「・・・ぁ―――・・・・・?」

薄く目を開ければ、乾いてざらりとする瞼と痛む眼球にさらに顔が歪む。

「ぃて、――」

涙で潤わそうと目元を擦る俺の手を、固い手のひらが包み込んで動きを止めた。
首を持ち上げて見上げれば、寝台に片膝を乗せたゼートが俺を見下ろしている。

掴んだ俺の手を布団の中に戻して、ゼートはもう一度俺の伸びた前髪を梳いた。

「・・・・今日は早く戻る」

まだ鈍い目元を手で覆われて、俺はその動きのままに瞼を下ろした。




*




迷子になった幼児が母親にすがりつくが如く、昨夜の俺はゼートから離れ難か
った。実質、今現在の俺の保護者はゼートだからあながち間違ってもいない。

と、いうか、話に夢中になっている内にゼートの私室に着いてしまったので、
そのままお邪魔することにしたというか。

その部屋を見た瞬間に、俺の胸の内に激しい炎が燃え上がったというか。

“万緑の間”と名づけられているらしいゼートの私室は、その名の通り濃淡さ
まざまな緑で統一されていた。全く、それはもう全く可愛らしさなどとは無縁
の、素晴らしくカッコよろしい造りの部屋だ。そう、“青軸の間”とは大違い。
納得いかねえ。

もちろん、それが貴族の証ですか? と訊きたくなるような天蓋付きの寝台も、
お姫様ベッドなどでは無かった。無かった。

その素敵に大きな寝台を前に打ち震えた俺を見て、ゼートは着替え片手に浴室
へと向かいながら、掛けられていたガウンを投げてよこした。

「暖炉の前へ」

「え? あ、うん、ありがとう・・・」

暖かそうな厚みと重さのあるガウンだが、行き届いたお手伝いさん達の手によ
って温められた室内ではさほど必要性を感じない。が、どうやら俺が寒気を覚
えたのだと思ったゼートの厚意、一応ありがたく受け取っとく。俺の心がこの
世の不公平さに凍えたのは事実だ。

きちんと俺が暖炉の前に行くまで見届けてから、ゼートは浴室へと消えて行っ
た。

流石にガウンまで真っ黒けでは無いのか、渡されたそれは濃い茶色にツヤっと
した細い藍で縁取られている。織り込まれた柄と手触りからしてその価値が知
れるというものだが、遠慮なく庶民代表としてこの俺が着込んでやろう。

「・・・・・・・・・・・・・。」

でかい。

俺はどこぞの女子高生か、という様な格好で袖から出るのは爪先だけだった。
ゆるく腰元で留められるのであろう太い帯も、補って余りある長さだ。

暖炉の前のソファーから離れて、鏡で確かめた俺の姿は、大き目の学ランを張
り切って着込んじゃった中学一年生のようで。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

うん。なんかもう予想通りっつーか別に何とも思わないよ。こんなもんだよ俺
とゼートの体格差なら。俺ショックなんか受けてないよ。


「・・・・何をしている?」

ソファーの上でなく、絨毯にじかに体育座りをしていた俺を見つけ、一瞬足を
止めたゼートが声をかけた。

「・・・別に」

開き直って縮めた足までガウンで覆いながら、棒読みな返事を返してみる。
ゼートはふてぶてしい皇帝ペンギンのような俺の姿をしばし眺め、何も突っ込
むことなく一人がけの椅子に腰を下ろした。いやあのさ、そうも完璧にスルー
されると引っ込みがつかないというか可笑しいと思えよアンタ。せめて何か反
応を返してくれ。なんか気まずい。客観的に今の姿を考えるとなんか気まずい。

自分がアホらしくなってきたので、のそりと腕と足を伸ばして姿勢を崩した。

「なんか早かったけど、ちゃんとあったまって来たの?」

この屋敷に来てまず感動したこと、その一つが水周りだ。貯水式とはいえトイ
レはまさかの水洗だし、風呂場には浴槽まで完備されている。今までの旅程
の中、こんな宿屋があっただろうか。いや、ない。

久しくそんな進歩的な営みを忘れていた俺にとって、水に流れていくアレやコ
レやはまさに絶景だった。

「ああ」

俺が綺麗になったゼートを前にそんな汚い考えを巡らせているとは露知らず、
ゼートは湿った髪をかきあげている。隠れていた額と目元があらわになって、
まさに大人の男といった風格が滲み出ていた。

「へえ、オールバック似合ってんじゃん。どうせならいつもそうしてれば良い
 のに」

到底俺には真似の出来ない髪型、似合うなら存分に楽しめば良いじゃないか。
これは別に男として嫉妬しているわけではなくただそう、純粋な気持ちで推奨して
いるんだ。第一、あんまり伸ばしてると目が悪くなるぞ?

ゼートは一瞬俺に目を向けたが、微妙に口元を歪めるだけで何も言わなかった。

「あー、そーいや俺も随分髪切ってないなー」

絨毯から椅子を見上げていると、目に前髪が入って痛むずがゆい。ゼートの髪
型以前に自分のほうが問題有りだと気付いて、俺は前髪をひっぱって長さを確
認してみた。・・・・・うん、なんつーか、ほんと人様に言える様な立場じゃないな。

予想以上に伸びていた髪におののき、最後に散髪したのはいつだったろうかと
記憶を探っていると、ふいにゼートが手を伸ばして俺の髪を一房つまんだ。

「・・・そうだな・・・」

じっと俺の髪を眺めたのち、屈めた上体を起こして再度俺の全体を眺める。

「結構やばくない? 橋の下に住んでるっぽいよ俺」

「いや、似合っていると思うが」

「・・・・うん、あんま嬉しくない」

こんなザンバラな髪型を似合うと言われても、到底誉められているという気に
はならないんですが。それともなんですか、俺の顔自体だらしねえとでも言い
たいんですか。

じろりと半目になってゼートのデコを見つめていると、ゼートがゆるく視線を
上げて呟いた。

「・・・・ライチェを呼ぶか」

「・・・・・なに?」

俺がゼートの方へ体を乗り出すと、ゼートは視線を下ろして俺の頭を見た。

「切りたいのだろう?」

「そりゃまあサッパリしたいけど、」

「ならば明日だ」

いやいや、俺の疑問に全く答えて無いよゼートさん。

話の流れからしてそのライチェとか言う人は美容師か何かなんだろうけど、何
故ここまでご足労願うのか。俺が行けばいいじゃん。

俺が訝しげに口を開けば、ゼートも訝しげに見つめ返した。

「どこへ行くと?」

「だから、わざわざ呼ぶなんてしないで、俺が店に行けばいいでしょ」

「・・・・店、へ?」

「そうだよ」

大体ですね、自宅に美容師を呼びつけて良いのはセレブリティだけって決まっ
てるんだよ。庶民はいっそ床屋で良いんだよ。

「・・・・・・・・いや、その必要はない」

俺がじっとりと見つめ返していると、ゼートは数秒の沈黙の後に今までの問答
を一言で無に帰した。うん、立派な亭主関白予備軍だね。

何なんだ一体、と俺が眉をしかめると、それを見たゼートは腰を上げて俺の両
脇に手を差し込んできた。

「ぅわひゃっ?!?」

やばい俺の弱点の一つ、それは脇の下。こそばいむずいやばいってコラ。

「ひっはっ、はな、何すんだよ!?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・すまん」

手を差し込まれた瞬間ぞわりと腕が総毛立ち、俺は必死に身をよじってゼート
から後退った。笑いか悲鳴か判らないが、何かが飛び出してきそうだったので
歯をくいしばってゼートを凝視する。そんな俺の凄まじい形相を見たゼートは、
中腰の体勢で固まったままぽつりと謝罪を口にした。

「な、なんなんだよ」

「・・・・・・・いや、床は冷えるだろうと、」

「俺は赤子か!?つまみ上げろ普通に!いやまず声をかけろ声!」

「・・・・・すまん」

小さな子どもにするように、ひょいと持ち上げようとしたらしいゼート。

「ったく・・・」

ありえねえだろ、とやさぐれながら長椅子に腰掛けると、ゼートはしばし困っ
た様子で不細工なツラをした俺を眺めていたが、すいと踵を返すと万緑の間か
ら出ていった。

・・・・・・・・・・。


「・・・・・ありえねえだろ・・・・・」


おーい、曲りなりにもスパイの親玉が、私室に人を放り出してっても良いんで
すかー。




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