第二十一話


公子様の屋敷を出て、トリンキュローの街に宿をとった。ここは保養地として
も有名らしくて、人も宿屋も多い。

窓辺から、夕日にキラキラと光る湖とたなびく布を眺めて、俺は溜息をついた。
マジで自己嫌悪するしかない。俺のためにここまで来たのに勝手にショック受
けてゼートに当たって。ゼートの正体とか聞いて余計ワケ判らなくなってる。
何なんだろう、ほんとに。

夕日に染まった部屋の中をぐるりと見渡す。ゼートはいない。あの後すぐにグ
テグテな俺を連れて宿をとったから、ジェードを迎えに戻っている。オレンジ
色に染まった部屋はなんだか無性に寂しい気がして、俺は荷物から着替えを取
り出すと浴場へ向かった。


この街が保養地として有名なのは温泉が湧いているかららしい。温泉と聞いて
一瞬テンション上がったのはこの俺だ。俺の数少ない趣味の一つがまさしく湯
治。ダチ連中に「若年寄」とあだ名をつけられた所以でもある。温泉最高。し
かも異世界の温泉ってなに、何かすごい色とかしてんじゃねーの。ああもう、
温泉を前にして殺人とかアンダーグラウンドな話題なんかどうでもいいよ、今
は温泉だよ温泉。湯治の最中は心を穏やかにするのがルールだ。

夕飯時ともいえる時間だからか、風呂場にはあまり人がいなかった。もちろん
内風呂なんかじゃなく、俺が目指すは露天風呂。異世界にも露天風呂という概
念があったのかと驚いたが、やはり温泉の魅力というものに世界など関係ない
んだろう。そこに美しい景色と温泉がある、それだけで露天風呂は必然。


小さな宿屋だったが、そこはやはり保養地、こじんまりとしてても天然の白い
湯船は感動が違った。世界の温泉地を紹介する雑誌で見たことがあるような、
鍾乳石みたいなツルッとした岩がそのまま湯船になっている。やべー、マジ顔
がにやける。元の世界じゃギリシャとかそこらへん行かないと入れなかったよ
うな夢の温泉が今目の前に。お湯なんか薄い乳白色に青みがかってるよビュー
ティフル。

だがそこは温泉人のマナーとして、はやる心を抑えてまずは体を洗う。そして
足をそっと入れた瞬間、俺は顔が緩むのを止められなかった。すげえ好みの温
度。そしてそのままスルスルっと進んで岩の陰に入ると、思いっきり体から力
を抜いてとろけた。たまんねえ。



しばらくの間無心にお湯を楽しんでいたが、ザブザブとお湯を掻きわけて誰か
が近づいてくるのが判った。せっかくの貸しきり気分だったのに。目を開けると、
丁度目の前に男が座り込むところだった。褐色の肌にすごい筋肉をしている。
でもなんかあの、結構傷とかある感じでまるでマフィアって雰囲気。思わず彫
り物とか確認しちゃう俺は小市民。

「よォ」

マフィアな男は、見た目に反して普通に俺に挨拶してきた。うん、温泉に入っ
てる時は平和的にね。

「こんにちは」

こちらも友好的に挨拶したが、ぺこりと頭を下げる俺を、男は何が面白いの
かニヤニヤしながら眺めてくる。

「へ〜ぇ、ほ〜」

だから何でそんな観察体勢? 何にも珍しいトコなんてございませんよ。慄く俺
がじわりと後退すると、マフィアは濡れた赤毛を掻きあげて、薄い茶色の目を
細めて笑った。何かに似てるような・・・・・。・・・・・に、肉食獣?

「まぁまぁじゃねぇか」

一体貴方の中で俺にどんな評価が下されたんでしょうか。日本人は農耕民族で
あって例えるなら草食獣なんですその中でも俺は文化系でして正しく弱者。と
いうわけでこっち来ないで。

被捕食者の気持ちが痛いほど良く判る空気の中、背後の岩にベタリと背中をく
っつけて日本人特有の曖昧笑いを浮かべていると、男の手が俺の首へと伸びて
きた。ひぃ。反射的に突き出した両手も軽く片手で拘束される。ジーザス。


「――――・・・ッ」



だが、事態は俺の想像を遥かに超えた次元で展開した。



「・・・・・ぁ、」



首の後ろを掴んで引き寄せられ、自然とのけぞった俺の口に、マフィアが。



「っん、・・・――」


口の中で軟体動物が動き回っている。なにこれ。

完全に硬直した俺の耳に、ピチャリと遠く水音が聞こえた。最後に口の中をぐ
るりと掻き回して、出て行く赤い―――・・・

限界まで見開かれた俺の目に、至近距離で覗く男の薄い虹彩が見えた。それが
弓なりに歪んだかと思うと、唇をベロリと舐められる。


「・・・ごちそーサマ」




我に返ったとき、既に俺は一人で。







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