第六話


浅い眠りと覚醒を交互に繰り返しているうち、居間から人の動く音がし始めた。
窓の外に目をやるが、嵐はやんでいる様でもまだ朝日は昇っていない。
俺は重い頭を押さえつつ起き上がると、毛布で体を包んだまま居間へと向かっ
た。冬を呼ぶ嵐の翌日だからか、今日は一段と冷え込んでいる。
寝室の入り口に立って中を見ると、ちょうどドアが閉まる瞬間だった。

慌てて外に出てみると、男は既に小屋から馬を出していた。まだ空には薄雲に
滲んだ巨大な月が輝き、辺りには昨夜の嵐で濃い霧が出ているというのに。

「もう出発するのか?朝飯も食わないで」

男に近づいて声をかけると、やはり男は驚いた様子もなく俺を振り返った。

「それにまだ出るのは危ないよ」

毛布の前を掻き合わせながら問いかけると、男は鞍を付けながら応えた。

「日が昇る前に出ないと間に合わない。ジェードには悪いが、先を急いでいる」

そんなに急ぐなんて、何か大事な用でもあるんだろうか。まさか暗殺の仕事だ
とか言わないよな。あえて訊かないけど。それにこの馬、ジェードっていう名
前なのか。もうすっかり元気そうで、やっぱり唯の馬じゃない。

黙って男の準備を眺めていると、ふと手を止めた男が俺を見た。ちょっと気を
抜いていたから体がビクつく。そんな俺を見て、男は少し目を細めた。

「昨夜は助かった。礼を言う」

「ぁ、ああ。別に大した事じゃない。困ったときはお互い様だ」

少々どもりつつ応えると、また男は薄く笑ったようだった。そして俺の顔へと
手を伸ばすと、軽く頬に触れながら問いかけてきた。

「名は?」

いやだから何でそこで俺に触る。あからさまに震えたよ俺。あんた俺がビビッ
てんの判っただろ、お願いですから手を離して下さい。
目線で訴えても気付いてるのか無視してるのか、男はじっと俺の返事を
待っているだけだ。え、これ答えるまでこのまま?

「・・・・・瀬田 優心・・・」

仕方なく答えると、男は手を離しもせず呟いた。

「セタか・・・・。覚えておこう」

そして、あまつさえ頬に置いた手を横に滑らすと、髪を軽く梳いてから馬に
飛び乗った。
その行動にもう言葉も出ない俺は、そのまま巨大な月を背景に霧の向こう
へと消え去る男を、ただただ見送るしかなかった。


・・・俺の名前、“せ”にアクセント置くんじゃなくて“た”にアクセントなんだ
けどな。「板」じゃなくて「下駄」と同じでさあ。

そして俺はハッと気付く。


おい、自分は名乗りもしないってどういう了見だ。




なんだかどっと疲れた俺はしばらく火を点けた暖炉の前に座り込んでいたが、
気が付いた時には部屋の中が明るくなっていた。どうやらいつの間にか眠って
しまったらしい。立ち上がって背筋を伸ばしながら部屋を見回したが、爺さん
が起きて来た様子はない。一瞬起こそうか迷ったが、朝飯が出来るまでは
そっとしとくことにする。

お袋が居なくなってから俺の料理の腕前も随分と上達したモンだが、そもそも
火の点け方さえ判らなかったストーブを使っての料理はかなり難しかった。主
に火加減とか。大体今使ってる調味料、名前さえ知らないしな。
地道に味をみながら足していって、それなりに旨いポトフもどきを作ってみる。
・・・ちょっと俺ってすごいんじゃないか。日本の19歳男子のうち何人がこのア
ナログキッチンで調理出来るっていうんだ。そんなんきっと俺だけだ。嬉しくない。

自分に新しい特技が生まれたことに複雑な心境を抱きつつ、爺さんを起こしに
寝室へ向かう。入り口をくぐると、爺さんのベットの前でマーノがちょこんと座って
いた。お前、もしかして昨日から動いてないんじゃないか。

マーノの忠犬っぷりに慄きつつもベットへ近づくと、爺さんの顔を覗き込む。

そして俺は気付いた。




――爺さんが、もう息をしていないってことに。








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