第一話


その日は本当に普通の日だった。
改めて何をしたのかなんて思い出せないくらい、本当に変わったことなんて何
一つ無かった。

それなのに俺は今、十九年間生きてきた世界とは違う場所で暮らしている。

その日いつものように布団に入り、普通に目覚めたら、そこは既に俺の知ると
ころでは無かった。木目調の低い天井、微かに漂う苦い香り。起き上がろうと
体を動かすと、まるで鉛を呑んだかの様に重苦しかった。


「目が覚めたかね」


そんな俺に話しかける声がして、声のした方へなんとか目を向けると、そこに
はとても年老いた老人が一人立っていた。深い緑色で袖の長い上着を羽織って
いる。その姿はうまく働かない頭でも、どこか奇妙に思えた。

「体の具合は?喋ることは出来るかの?」

応えようと口を開いたが、喉が張り付いて声が出ない。この場所も俺の体も、
なにもかもが異常だった。動かない俺の体も横たわるベットも見知らぬ天井も
嗅ぎ慣れない匂いもそばに立ってこちらを覗き込んで来る老人も。ここにある
全てが恐ろしくてたまらなかった。

気を失うようにして眠りについた俺はそのまま高熱を出し、三日三晩老人の世
話になった。起き上がれるようになってから聞いたところによると、俺は近くの池で
沈みかけていたらしい。老人が犬を連れて散歩に出ると突然犬が走り出し、
向かった先に俺がいたそうだ。その犬、マーノがいなかったら、俺は今頃お袋と
感動の再会を果たしていただろう。

老人に問われるがまま俺は素性を話した。名前、年齢、住所、家族構成。果て
は最近起きたニュースまで。だがそのどれ一つとして、老人の知るものは無かった。

信じられなかった。

老人の生活ぶりは質素だったが、それなりの文化基準には達していたし、この程
度の生活を送る人間が、日本を知らないなんてあるはずがない。

だがそこで、俺は今まで感じていた違和感の正体に気が付いた。
老人の衣服もまるで魔法使いの様だったが、この家には電気もガスも水道も
ない、本当に中世ヨーロッパかファンタジーの様な生活様式だった。だから、夜
はランプと暖炉の炎だけが、その家の光源のはずなのに。
その日はいつもと変わらない明かりにも関わらず、薄暗い部屋の隅まで見通せ
るほど明るかったのだ。

不思議に思った俺が理由を問うと、老人の答えは「今日は満月だから」という
ものだった。その答えに促されるまま、窓の外へと視線をやると。


俺の目に飛び込んできたのは、



窓の外で皓々と輝く、異様に巨大な満月だった。













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