彼の事情


土曜日、俺は「世界とは何か〜この世は不思議で一杯〜」というオカルト雑誌
を見ながら思索にふけっていた。

火曜日から始まった一連の不可解な出来事、それを論理的に解明してみようじ
ゃないかという崇高な意思のもと設けられた読書タイム。だが所詮オカルト学
者などというジャンキーな輩の戯言は何の足しにもならなかった。やはりここ
は実際に体験した俺自身が一番の参考資料。

「・・・・なんか変わったこと・・・・・」

だが俺に何もした覚えは無く、それはディーもあの驚きようからいって同じだ
と思う。一体何故よりによって俺んちの風呂が世界通り抜けフープになってし
まったというのか。

「あ゛ーーー、やってらんねーーーー」

ベッドの上に寝っ転がって天上を見上げる。若気の至りでヤニに黄ばんだ元純
白の天井。色合いはあの豪華室内プールに似ているが、それ以外は比べるのも
おこがましい。

「・・・ぁーーー・・・、・・・・ア?」

そしてふと寝返りをうって窓の方を向いたとき、網戸に止まったハエの姿が
目に留まった。そして思う。


原因などこの際どうでもいい、予防策を講じてこその学習能力。
そう、人間は考える葦なんだよパスカル。


網戸を指ではじいてハエを飛ばしながら、今までの現象に共通した出来事を総
ざらいした。まずは一つ目。

「事件は会議室で起きてるんじゃない、風呂場で起きてるんだーぁ・・・・」

涼一から借りっぱなしのビデオを視界に入れつつ指を折る。
俺とディーが出会ったのは風呂場、もっと正確に言えば浴槽の湯の中だ。だが
別れたのは湯の中じゃない、俺はそうだったがディーは違った。昨日ディーが
消えたのは脱衣所、俺の直ぐ目の前で、まるで初めからいなかったみたいに掻
き消えた。


何故?




「・・・・・・・・人の声・・・・・・・?」


思い返してみれば、ディーが初めて俺んちの風呂に現れた時、俺がお袋の声に
目を離した隙に消えていた。次に俺、ディーが呼んだ衛兵どもの声がした次の
瞬間には、あの忌々しい強制潜水状態に持ち込まれていた。そして四日目、も
う一度ディーが現れた時も、帰ってきた親父が―――・・・

「・・・・・俺に気づく前に消えたっつーの!」


――ざーんねーん、振り出しに戻る!


階下から聞こえて来たバラエティー番組の声に、俺は無言で拳を枕に叩きつけ
た。




*




「・・・・・陣・・・・、あんた、どうしちゃったの・・・・?」


昨日にも増して物々しい装備に身を包んだ俺を見て、流石のお袋も引き攣った
顔で訊ねてくる。その心に突き刺さる視線を無言で受け止めて、俺は静かに風
呂場へと向かった。

お袋が息子の正気を疑うのも無理はない。なにせ今夜の俺は海パンに加えて両
手にメリケンサックを装着している。どう考えてもこれから入浴する格好では
無いし、それ以前に常識的な人間のする格好では無い。俺としてもこんなトチ
狂った姿を晒すのは心苦しかったが、己の身の安全には代えがたい。


なぜなら、今夜は俺がディーの所へ行くハズだからだ。


あの後ひたすらサンドバッグを蹴り続けてスッキリした俺が思いついたのは、
これまで俺とディーが飛び込みプールに放り出された順番。といってもまだ三
回しか実例が無いが、もしかしたら俺とディーは交互に世界から放り出されて
いるのかもしれない。それも、佐藤のような第三者の介入が無い時だけ。


この推測が正しければ、今夜は、俺。




「っでわがっででもむがづぐんだよグゾっだれ!!!」

予想していたコトとはいえ腹の立つモンは立つ。俺は生ぬるい水中で怒鳴りな
がら、仄かに明るい水面へと向かった。

「――ッブハっ、」

水面に顔を出して、顔にかかる水を振り払いながら目を開いた。やはり俺が出
てきたのはこの前と同じ噴水の前、あの豪華室内プール。いや、ここがディー
の家の浴室なんだろうか。

「・・・ガキのうちから贅沢して、ロクな大人になりませんよー」

整った呼吸で小さく呟くと、ふと強い視線を感じて後ろを振り向いた。


「・・・・ジン・・・・?」


噴水から円形に広がる水面、その縁に寄りかかる姿でディーが俺を凝視してい
る。

「おー、二日ぶりだな、ディー」

片手を上げて挨拶すると、恐る恐る立ち上がったディーがゆっくりと湯を掻き
分けて近寄って来た。俺には腰程度でも、ディーには胸ほどの深さがある。

目の前まで近づいて立ち止まったディーは、そっと手を持ち上げて俺の左胸に
触れてきた。小さな手の平をピタリと当てて、ぽつりと呟く。

「まぼろしではないのだな・・・・・」

どうやら俺の心臓の動きを確かめていたらしいディーの顔が、奇妙に歪んだ。
その6歳の子供が浮かべるにしては不釣合いな顔に、俺は穏やかな微笑みを浮
かべて両手を伸ばした。

「――うみゅ!?」

「お前はこの前といい今日といい、そんなに俺は人間に見えねえっつーのか
 な? ん?」

「むぅううぅん!」

両側から頬をサンドイッチにされたディーが必死に俺の手を掴む。パッとすぐ
に手を離せば、ディーは勢い余って水中に沈んだ。

「ッそなたも毎度毎度余の顔をいじるのはやめぬか!!」

即座に体を起こして半泣きで見上げてくる翠の目に、知らず愉快そうな顔をし
た俺が映っていて内心苦笑する。ごめんね俺Sだから。

「まぁそれも一種の愛情表現ってコトで」

そう言って、右手のメリケンサックをはずし濡れた顔を拭ってやれば、何故か
ディーは苦しそうな顔で俺の右手を掴んだ。その掴んだ両手が微かに震えてい
て、俺の眉も微かに顰められる。

「ディー?」

そう呼んだ瞬間にも、ディーはびくりと震えて俺の顔を見上げてきた。すでに
両目には薄い水の膜が張っていて、顔はこれ以上無いほど強張っている。


「・・・・・なぜ・・・・」


喘ぐようなディーの声が、苦しげな吐息と共に吐き出された。

「なぜ、ジンは余を・・・・・、なぜ、なぜジンは、」

ディーが俺の右手をぎゅっと顔に押し付けてきた。開いた俺の手の平は、すっ
ぽりとディーの顔を覆ってしまう。

「・・・なぜジンはそのように触れるのか、なぜジンはそのように呼ぶのか」

右手を握り締めるディーの両手に力が篭もった。小さく丸めた背中と肩が、小
刻みに震える。


「・・・・・・・・父上は、余をいとしんではくださらぬのに・・・・」


掻き消えそうな小さな声。


「だれも、だれも、余をかえりみるものなどおらぬ。なのに」


濡れた手の平から顔を上げ、黙って見つめる俺の顔を空ろに見つめて、ディー
は呟いた。


「なぜそなたなのだ?なぜ父上でなくジンなのだ?そなたと余になんの関わり
 がある?なぜ、なぜ、ちちうえは・・・・」


ぽろりと、ディーの瞳から涙が零れた。


「・・・・・・・血とは、なんぞ・・・・・?」




俺はその時何を言おうとしたのか。


口を微かに開いた時、遠く女の声がして。


また、生ぬるい水の中。




「・・・・・・・重い・・・・・・・」


浴槽の縁に腰掛けて、独り項垂れた花冷えの夜。





<back   >next