――レーテの母は水妖だった。
そしてそれこそが魔性の証だったのか、子供の目から見ても美しい人だった。
そんな母を父は父なりに愛していたのだろうが、母にとっては人間に犯され
るということ、それだけで耐え難い苦痛だったのだろう。記憶の中の母は、歪
んでもなお美しい顔で、父に呪いの言葉を吐いていた。

父は、ひっそりと建てられた塔に母を閉じ込め、公務の合間を縫っては陵辱し
続けた。その結果生まれたのが、レーテだ。
何故、この雪と氷に閉ざされた国で、母が父に捕らえられたのかは知らない。
それはついに語られることの無いまま、母はレーテが四つの時に死んだ。










「―――レーテさま」

乳母の呼びかけに振り返ったが、レーテの瞳にその嫌悪の表情が映ることは無
い。魔性を現す金の瞳を疎んだ父親によって、瞳の光は奪われてしまった。

しかし半妖の身では、一月もすれば自然と瞳も治癒されてしまう。
そのために半月に一度、乳母から手渡される劇薬を飲んで再び盲目に戻る。
それが母の死後、十年間続くレーテの習慣だった。


(――私の翳った瞳が映すもの。それはおぼろげな物の輪郭、光と影)


不便を強いられるであろう視力でも、生まれた時から変わらない塔では、
何の不自由も無い。



塔の最上部に幽閉されるレーテにとって、月光に浮かぶテラスだけが、唯一の
外界と接する場だった。しかし昼間では、決して溶けることの無い雪に太陽の
光が反射して、レーテの目には眩し過ぎる。夜の暗闇の中だけが、レーテに許
された自由だった。



(――人が恐れる暗闇。私にとっては、柔らかく包み込む安寧の色)

(――黒い空に滲む月の光は、たった一つ許された導きの光)




太陽の光に弱いレーテは、昼と夜とが逆転した生活を送っている。その方が乳
母と接する機会も少なくなって、レーテには気安かった。

昼の間に睡眠をとって、夜の間はテラスに出る。
そして延々と続いていく黒い空と、白い大地に染め分けられた世界を眺める――。

それが盲目となってからの、変わることの無いレーテの生活だった。




*




(――ああ・・・今日は満月なのか)

盲いたレーテの瞳にも、満月の光は柔らかく射し込む。こんな夜は、テラスに
寝椅子を寄せて微睡むのが一番気持ちが良い。

レーテは寝台のベールをそっと潜り抜けてテラスに向かった。白い手摺の輪郭に、
いつもの様に手を這わせる。今は真冬、切れそうな程に冷え切っていて、それが
レーテには心地いい。


ふと、まわりが暗くなった気がした。


「今晩はラプンツェル。ご機嫌いかが?」


唐突に囁かれた男の声に、レーテの体は跳ね上がる。
この場所へ来る男は父ただ一人、こんな声を聞くのは生まれて初めてだった。

恐る恐る後ろを振り返れば、黒い人影がレーテの真後ろに立っている。満月の
おかげでかろうじて判る輪郭に、そんな至近距離でもレーテには男の顔さえ判
らなかった。

一体いつの間に部屋に入り込んだのか、いつの間に後ろに立ったのか。

「・・・・な、何者だ・・・!」

背中がのけぞるほど手摺に身を寄せて叫ぶ。夜と雪の静寂の中でも、レーテの
小さな声はすぐに掻き消えてしまった。

目の前に立つ男は、怯えるレーテにふと苦笑した様だった。軽く呼気の漏れる
音がして、レーテの髪が一房持ち上げられる。

「――そんなに怯えないで。俺は、ラプンツェルに会いに来た王子様さ」

触れられた感触に身を強張らせるが、男は構わず髪に唇を寄せる。動きからそ
れを察したレーテは、とっさに髪を持つ男の手を振り払った。

「わ、私の名はラプンツェルでは無いっ。人違いだ!」

その言葉に一瞬動きを止めた男は、すぐに肩を震わせて蹲った。

「――っふ、ふははははっ! ま、マジで? 君、それ本気で言ってるの?」

「な、な、何がおかしいっ」

「べ、別に君がラプンツエルさんだと思ったんじゃなくて。ふふっ。
 物の例えってヤツだよ、ふっ、あっははは! その顔! 可愛いなあ!」

笑い続ける男の影を、呆然と見下ろす。
もう何がなんだかわからなかった。

「・・・たとえ・・・?」

「そう、知らない? ラプンツェル」

「・・・・・・・・知らない」

頭の螺子がゆるんでいるとしか思えない男の様子に、レーテはすっかり毒気を
抜かれてしまった。緊張の糸が途切れてしまい、その場にずるずると座り込む。

「おっと、そんなところに座っちゃダメだよ。ほら」

その言葉とともに男の動きも止まった様だったが、レーテには何故男が動かないの
か判らない。戸惑ったように瞳を揺らしていると、男が訝しげに問いかけてきた。

「・・・・君、目が――?」

一瞬ためらったが、こくりと頷く。

「・・・そっか。
 
 ――では姫君、お手を拝借」

男はそれ以上追及すること無く、レーテの手をそっと掴んだ。
慣れない接触にびくりと震えたレーテの手が落とされたのは、自分よりも大きくて
温かな手の平の中。

「どうぞ、こちらへ」

歌うようにレーテを誘導する男に、思わずレーテはくすりと笑みを零した。
その笑顔に、男はますます芝居がかった調子でレーテの手を引く。

「――私の瞳に映るもの。月の吐息が煌めく、夜の頬に垂れた金の糸。
 嗚呼、美しき髪のラプンツェル。私を囚えた綺羅かな姫よ。
 その、稀なる金が、私を貴方の元へと誘ったのです」

男が謳いあげると同時、ふわりとレーテの体は寝椅子に横たえられる。

「・・・私の髪を見て、あなたはここへ来たのか?」

「そう。だって毎晩毎晩キラキラしているから、ずうっと気になってたんだ。
 まるで、ラプンツェルの塔みたいだって」

「その、ラプンツェルとは一体何なのだ?」

「御伽噺のひとつ。
 塔の上に閉じ込められた、美しき長い髪の姫君・・・・・まさしく君のことさ。
 そして俺は、ラプンツェルに一目惚れした王子様ってね」

「私は姫では無いよ」

「・・・・・突っ込むトコは、そこじゃないんだけどなー」


(――他人とこんなに長く話すなんて、生まれて初めてだ)

見えない瞳を瞬かせて、レーテはずっと男の影を見つめていた。寝椅子の横に
座り込んだ男は、レーテの髪をいじりながら楽しそうに話している。

「・・・ねえ、ラプンツェル。これからも会いにきて構わない?」

髪に触れていた手が頬へと伸びても、レーテが震えることは無かった。そんな
ことよりも、レーテの心はこの不思議な男で一杯だった。

「どうやって? あなたはどうやってここに来たのだ?」

塔の最上階へと続く階段は一つきり。塔の入り口は厳重に閉ざされ、その鍵を
持つのは乳母と父の二人だけ。それにも関わらず、この男はいつの間にかレーテ
の部屋に入り込んでいた。

「・・・あなたは魔法使い?」

頬に触れる男の手をとり、レーテはじっくりと触って確かめてみた。自分とは
違う、大きくて少し硬い手。けれども特に変わった所は無い。

不思議そうなレーテの顔に、男は軽やかな笑い声をたてた。

「君は物語のラプンツェルと違って髪を下ろしてはくれないし、第一そんな
 痛そうなコトはさせられないからね。俺は恋の軽い翼で飛んできたのさ」

「つばさで!?」

それを聞いたレーテは寝椅子から飛び起きると、男の方へ手を伸ばしペタペタ
と触りだした。初めに触れたのはどうやら二の腕、そこから辿って後ろに手を
回しても、ただ広い背中があるだけで翼などどこにも無い。それでも念を入れ
て擦っていたが、「無いじゃないか」と不満げにレーテが唇を尖らせると、微か
に揺れていた背中が大きく傾ぎ、次第に大きくなる笑い声と共にレーテの方へ
と倒れ込んできた。

「――あっははははははっもーダメだ、参った、本当にかわいい、くっ、ハ、
 ハハハハハ!! ひー、しぬ!!」

「な、何なんだ一体!」

下敷きにされたレーテは必死にもがくが、男はぎゅうぎゅうとレーテを締め付
けて離さない。

「本当に可愛いね、この塔のラプンツェルは!」

レーテの首筋に顔を埋めて、くくくと笑いながら頬擦りをしてくる男。疲れ果
ててしまったレーテは、溜息を吐いて男の背中を叩いた。

「・・・重いよ、王子様」

その訴えを聞いて、男の笑いはピタリと止まる。どうやらレーテの方に顔を向けている
らしいが、あまりの近さにレーテは身動き一つ出来ない。耳には男の吐息がかかり、
横顔には痛いほどの視線を感じて、レーテの心臓だけが激しく動いた。

「――うん。俺は君だけの王子様だ」

そう耳元で囁くと、男はさっと身を起こしてレーテの頬に口づけた。

「なっなななっ何をっ」

「君と俺の出会いを祝して! 記念のちゅー」

動揺するレーテに笑いの滲んだ声で答えると、もう一方の頬にも音高く口づけた。

「ッ!?」

「またね、俺のラプンツェル!」

硬直したレーテから離れ、黒い影はテラスへと走り去る。我に返ったレーテが
テラスに向かっても、もうそこには誰も居なかった。







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