夢のあとさき



―――こうして俺と幼いディーによる悲劇はわずか一日でその幕を閉じた。


そしてそんな感傷を消化する間もなくまた再開された喜劇のような再会劇、
それはリセットも途中降板もきかねー生きるリアルの厳しさよ。




「――一体どういうつもりなのだジン!モルドゥにあのような許しを勝手に与える
 など―――許さぬ!余は断じて許さぬぞ!」

「いや、別にお前の許可を取る必要なんて無いし。つーかそれ以前に怒る理由が
 わかんねーし」

「ジンは余のものだ!」

「喧嘩売ってんのか?」

「ジンは余のものだ・・・!」

「頭大丈夫か?」

「ジンこそ、ジンこそっ、何も判ってはおらぬ・・・!!」


不本意ながら滞在することになった異世界にて、非常に残念なことに変態に成長
していたかつての子犬と敵意剥き出しのプロに囲まれるという最高にクレイジー
な状況の中、ようやく癒師・モルドゥという異世界初の話が通じそうな人間と知
り合うことができた可哀相な俺。

つい押さえ込んでいたディーのことなど忘れ熱心にモルドゥに話かけていたが、
唐突に立ち上がったディーが険しい顔でモルドゥに退出を命令すると一気に場の
空気が緊張した。

「退け、モルドゥ」

命令されたモルドゥは一瞬眉を跳ね上げたが、そのまま何も言わず俺から離れ、
ゆっくりとした足取りで扉の前に立ち止まる。

そして意味ありげな顔で俺を一瞥すると、静かに一礼して扉を閉めた。

「・・・アジョワン」

次はお前だ、と言わんばかりの声にはっと顔を上げる金髪の男。

それまで男は何とも敵意みなぎる瞳で俺を睨みつけていたが、ディーと目を合わせる
とみるみるうちに表情を強張らせた。

「・・・王・・・ルシュディー様」

「そなたも去れ」

「しかしっ」

「去れ」

やはり護衛としては正体不明の男と主人を共に居させるなど論外なのか、金髪の男は
必死の形相でディーににじり寄るが取り付く島も無い。
すげなく切り捨てられた懇願にぐっと眉根を歪ませて、のろのろと腰を上げた。

その様はまるで飼い主に叱られた犬のようで、犬好きの俺は少々の哀れみをもって
うな垂れた背中を見送る。

しかし最後の最後で一礼して扉を閉める瞬間、ヤツは俺に向かって鋭い一瞥を寄越し
てきたので俺もそれに見合った対応をした。

「―――ッハ」

俺に鼻で笑い返された男が、一瞬大きく目を見開く。

その姿は閉まる扉の向こうへすぐ遮断されたが、俺は心もちスッキリとした顔でディー
に向き直った。

「・・・・・・ジン」

そんな密かに始まって即座に終了した縄張り争いにも気づかぬご主人様は、俺の手首を
握り直してわなわなと唇を震わせる。

「・・・ジンは・・・・ジンは・・・・・」

ぎゅうっと力を込められる手首はいい加減鬱血しそうだったが、先ほどの見慣れぬ
支配者然とした姿とは違う馴染みある泣き出しそうな子どもの姿に自然と体から
力が抜けた。

本来なら既に同世代となった野郎を甘やかすつもりなど微塵たりともなかったが、
とっとと話を進めるために溜息ひとつで甘えを許した。

「・・・あーあー判った、判ったからちょっと腕離せ。
 ああだから判ってるっつってんだろ、ほら、代わりに手握ってやるから、な?」

「――――――」

離せと言った瞬間むずがるようにより強く握り締められたが、こいつは幼児こいつ
は幼児と唱えながらひらひらと片手を差し出す。

するとベッドの端で胡坐をかいた俺の前に跪いたディーは、おそるおそる俺の片手を
握り締めると離すまいとするように両手で抱え込んだ。

「・・・・・ジン・・・・・・」

俺の目の前でうなだれた銀髪が、腰巻から剥き出しになった俺の脛をくすぐるように
滑り落ちていく。

その数分前とはギャップも甚だしい情けない姿に込み上げる溜息をぐっと呑み込んで、
俺と大差ない大きさの手を握り返した。

「・・・なぁおい、俺は何を判ってないっつーんだよ。
 ここは日本じゃなくてお前の国で、んで今ん所戻れなくて。
 ぁあそうだ、そういやお前王とか呼ばれてたな。ありゃ一体どういうことだ?」

ん? と想像以上に硬い手をにぎにぎすると、のろのろと顔を上げたディーは薄く
口角を上げて俺の顔を見上げた。

「・・・ジンが余の元から姿を消して後、長年続いたバシレウスとの戦にて父上は戦死なされた。
 同じくバシレウスの王も死に、休戦協定を結んだ王太子が後を継ぐ筈だったが第二王子が
 起こした謀反によって二人共が死んだ。王位は空位となったが第三王子は使い物にはならぬ。
 よって余が王となった。二年前の事だ」

薄ら笑いを浮かべながら語るさまはまるで他人事のようだったが、その話で死んだという
誰も彼もが皆ディーの身内だった。俺が言うのも何だがこれは少々情緒面に問題があるん
じゃねーのといつか聞いたヤツの父親に対する鬱屈をしみじみ思い返していると、
案の定ディーはくっと妙に枯れた感じで笑いながら俺の膝に頭をのせた。

「ジンも言ったであろう? 手が届かぬなら踏み台を探せばよい。
 踏み台が無ければ作ればよい。さすればいつか月にも手が届こう」

――なあ知ってるかディー? お前の世界にもある月に、人間は立った事があるんだぜ?

いつかディーの腰元に揺れていた月の形の飾りを眺め、寝物語でもするように聞かせた
人類の偉業を思い出す。

ああやっぱりこいつは本当にあのディーなんだな、と俯く変わらない銀色の頭をぼんやり
見つめていると、ぎゅっとディーが握る手に力を込めた。

その力に目が覚めた。

「ジンの言った通りだ。届かぬと思っていたものが手に入った。余が己の力で掴み取ったのだ」

天は遠いものでは無かった、とくつくつ肩を震わせるディーに、一瞬壮絶な違和感を感じて
膝が揺れた。

・・・ディー?

「・・・ならば、なあ、ジン。形無きものも捕えられるだろう? 例えば、風のような」

夢見るような翠色が、掬い上げるように俺を見上げる。

「――今、このように。ジンが余の元に戻って来たように」


――余は全てを手に入れるのだ。


堪えきれぬ歓喜が迸るように、高く吊り上った唇から白い歯が零れた。


「――――ッ」

そのまるで見知らぬ男の顔に、ぞっとして反射的に膝を崩す。

プツプツと立っていく鳥肌がその瞬間の俺の心情を如実に表していたが、ぼすっと顔面からシーツに
突っ伏したディーはいつも通りの情けなさで顔を上げた。

「・・・何をするのだ、ジン」

「・・・・・・・・・・・・」

不満そうに唇を尖らせる顔はあの頃のままで、先ほどの違和感は気のせいだったのかと暫し黙考する。

腰を引いたままのそんな俺に肘をついて上体を寄せたディーは、俺を仰いで眩しげに目を細めた。

「・・・その飾り、身に付けていてくれたのだな」

「――あ? ・・・ぁあ、まぁな・・・」

一瞬何のことか判らなかったが、すいと伸ばされた左手が俺の耳朶をなぞりその存在を思い出す。
何度も無心に俺の耳に通された金具と石をなぞっていたディーは、やめろくすぐったいと払った
俺のしかめっ面を見て酷く幸せそうな微笑を浮かべた。

「――綺麗だ、ジン」

純粋な響きのその言葉は、やはり俺の中のディーと変わらないように思えた。





既に時間は夜であったらしく、ディーに何か食べるかと聞かれたが食欲はわかない。
ついいつもの調子でコーラ飲みてぇなと呟いてしまうと、コーラとは何だ食べ物か
どんなものだ今すぐ探させようと目覚めた時の怒涛の勢いが復活してしまいやむ無く
一撃を加えた。同じ轍は踏まん。

「・・・では、もう休め。手加減されたとは言えアジョワンの手、万一の事があってはならぬ」

見た目はほぼタメ・実質年下の男に命令口調でものを言われるのは非常に不愉快だったが、
まあ今更だと一つ頷き言われるまま横になる。

そこで何故か当然の顔をして入り込んできた男に枕を叩きつけた。

「ぅぶッ?!」

ああ本当俺って丸くなったなァ不本意にも。

「休めってお前本当に俺を休ませる気があるのか本当にそれで?」

今後の身の振り方をじっくり考える暇も与えんつもりか貴様は。

流石の俺もちょっと疲れちゃったの一人でゆっくり考えたいの Do you understand? 
と故意に潤ませた視線を送ってみせると、逆に本気で潤んだ眼差しを送り返され
気力が激減した。――ッチ、この天然が!

「・・・ジンは平気なのか」

俺に引き剥がす意思が失せたのを悟ったのか、ぎゅうぎゅう抱きついていた力を緩めて
ぽそりと呟く。

「あ? なにが?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

無言で責める沈黙と同じく、なじるように額を肩に押し付けられた。

「・・・・・・・・・・・・・・」

・・・テメエいい加減ぐだぐだやってねえでハッキリ言えやコラァ、というオーラを放ちつつ
半眼で流し見ると、同じように横を向いたディーの瞳とバッチリ目が合った。

「・・・・・よいか、ジン。10年だ。10年、余は待ったのだ。長かった―――とても」

瞬きもせず繰り返すディーの瞳は恐ろしい程澄んでいて、ただひたすら俺だけを映していた。

「再び手に入れた今となっては、二度とは待てぬ」

どうも引っかかる言い方だな、とは思うが今は自粛。

「だから二度と手放さぬ。二度と目も離さぬ。余は二度とは待てぬのだから」

そんな強気な発言とは裏腹な締め付けられる腕の必死さに、昨夜の別れを思い出して俺は
ひっそりと息を吐いた。

「・・・だから泣くなっつーのお前は・・・」

10年分伸びた銀の髪を梳いて、改めてデカくなった褐色の背中を抱え込む。抱きつく形から
抱き込まれる形になったディーは一瞬肩を震わせたが、何も言わずに俺の胸に顔を埋めた。

「――――――」

――デカくなった。

褐色の背中と対比すると俺の腕が異様に生白く見える。
子ども特有の細さを持っていた髪は確かな感触で腕に絡みつく。
俺の背中でディーの腕は交差している。
昨日までは背骨にも手が届かなかった。

デカくなった。
デカくなった。

だが変わらなかった。

忘れなかったんだな、ディー。

「俺を、」

お前は、


「――俺が、憎いか?」


10年間、ずっと。


嗚呼今日再び出会った時から、こいつが相変わらず人の話を聞きもしないで一人で突っ走って
泣き喚いて、嗚呼それが昨日別れたばかりの俺にとっては当然のディーの有様だったから少し
も不自然とは思わなかった。

違うだろう。
それは俺に対する一部だけなんだろう。

時折感じた違和感、刹那見せ付けられた別人の顔、あれこそが昨日と今日の間で成長した
お前だったのだ。

取り残されているのは俺だけか。
お前は俺を取り残したのか。

本当に?

「――俺が、憎くないのか?」

別れ際思った台詞を実際口に出してみると、ああも俺に依存していた子どもが我ながら手酷く
切捨てられ今もなお同じ気持ちで居られるなどやはり真実味が無いと思う。
取り残した物が徐々に変容し、やがて腐り果てるように。

順当に考えてそれは憎しみに辿り着くと思うんだが、どうか。

「・・・・・・・・・・」

・・・執着は執着でも負の執着なら俺も対応を改めねばならぬ、と聞くのも嫌だが気合を入れて
ブラックボックスに手をかけると、ディーは思いも寄らない事を聞いたという顔で俺を見上
げた。

「・・・にくい?」

まさか意味が判らないとは言うなよその発音。

「・・・ジンには、憎いものと共寝をする趣味があるのか?」

殴るぞ?

言わずとも空気で読み取ったのか、ふふっと小さく笑って口の端を上げるディー。

その濡れて煌く睫毛の奥を覗き込んでみると、「・・・そうか、憎むか・・・」と口の中で転がして
また可笑しそうに笑う男に、俺も片頬を上げて笑った。

柄にもなく余計な気ィ回すんじゃなかった、さっさと眠れ永遠にな。

「・・・・それは考えたことも無かったが、云われてみれば当たらぬ事も無い。
 だが、あの不可思議な水路の道行きに、我らの意思は不自由だった。憎く思ったとすればそれは、
 気紛れに引き離した天運。捉えることの出来なかった余の脆弱さ。翻弄されるのみの弱さよ」

――ジンは気付かなかったのであろうが、あの湯殿はかつてと同じ物では無い。ジンが消えて暫く、
あの宮は父上によって取り壊されてしまった。余の嘆願は聞き届けられる事無く、ついには潰されて
しまったのだ。その時の衝撃をジン、余は生涯忘れぬぞ。もはやジンに再び逢う事は叶わぬと、
余の力が及ばぬばかりにその望みは潰えてしまったのだと、そう。
余は己の弱さをこそ何より憎んだのだ。

「――それがよもや、未練がましくも再建した湯殿でそなたが再び現れようとは。
 どうして憎める? ジン。余の望みを、もう一度叶えてくれた」

――余の夢など、全て壊れるものかと思っていたのに。

そして伏せられた瞳のまた微かに潤む気配に、俺はいい加減休みたいんだがと思いつつ背中に置いた
手をそっと動かした。あーもうほんと俺って以下略。

「・・・・今も、まだ、信じられぬ・・・。そなたが、本当に・・・・」

続く掠れた言葉を最後まで聞くことなく、俺はその重い体を問答無用でベッドに引きずり上げた。

「っな――?」

驚きに揺れる銀髪を腕の中に抱え込み、そのままドサッと横になる。

「あーあーはいはい、とりあえず疲れたから続きはまた明日な」

反射的に押し戻そうとしたディーに構うことなく、さらに頭を抱き締める。
僅かな抵抗も即座に沈静化したのを見て取ると、もう一度ゆっくり囁いた。

「また明日、な」

「――――――」

息さえ止めて硬直していたディーはそれから暫くして、ゆっくりと俺の左胸に頬を寄せ、
ずっと俺の心臓の音を聞いているようだった。
その仕草はやはり、小さな頃と少しも変わってはいなかった。


裸の胸が静かに濡れたが、俺は何も言わずに瞼を閉じた。









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