はじまり

風呂。それは一日を締めくくる重要かつ神聖な空間である。
少なくとも俺にとってはそうだ。邪魔されたら、思わず拳が出るほどに。


「うっ、ぅああぁ〜ん!!!」



でも流石にな、こんなちっこいガキを殴っちまったのにはなけなしの良心も疼
くってモンで。




ご近所の奥様方から不良息子と名高い俺のバスタイムに、突如闖入者が現れた
のはつい数分前のことだ。

毎日のように俺と遊びたがる大きな子供達を返り討ちにし、それなりに疲れた
体を風呂でリセットするのが俺の日課。たっぷりと張った湯の中で体を伸ばせ
ば、そりゃもう気分は極楽浄土で。

「―――あ?」

鼻歌なんぞ響かせながら天井を見上げていると、足の間が妙にむずがゆい気が
する。なんとはなしに視線を下げて、俺の眉は訝しげに顰められた。


いつの間に俺んちはジャグジーになったんでしょーかね。


俺の足の間から、絶え間なく立ち上る気泡の数々。その泡が足を掠めるたび不
快な感覚が体を走り、俺の機嫌は極楽から急降下で地獄の蓋にコンニチハして
いた。


「―――っぷハッッ!!」


よって、その泡から出てきた頭に拳を落としてしまったのは不可抗力である。




*




「あー、悪かったって。んなビービー泣くんじゃねえよ男がよ」

俺の渾身の一発を食らった子供は、大きく目を見開いたあと盛大に泣き始めた。
俺としてもまったく状況が理解出来なかったんだが、とりあえずこの子供を
何とかしなけりゃ俺の命が危ない。なぜなら俺のお袋は大の子供好き。
今はお隣の山田さんとカラオケに行ってるから良いが、もし帰ってきた時にこ
のコトがバレてみろ、明日の朝日は永遠に露と消える。

「オラ、顔上げてみ」

まずは涙と鼻水でぐっちょぐちょな顔をシャワーで洗い流す。何度もしゃくり
上げる背中をさすってやれば、子供は恐る恐るといったように俺の顔を見上げ
てきた。自覚はなかったが動揺していたらしい俺も、その時になって初めてま
ともに子供の顔を見る。・・・まあ湯船から飛び出してきた時点で普通じゃないん
だが、その子供の容姿も普通じゃない。明らかに日本人じゃない褐色の肌に、
それに良く映える銀色の髪をしている。どでかく見開かれた瞳なんか、お前光
合成出来んじゃねぇのっつーくらいに翠色だった。


「・・・・・・・・・そ、そなた何者だ・・・・?」


よほど俺の拳骨が効いたのか、脅えた瞳で問いかけてくる子供。反対側の浴槽
ギリギリにまで寄って、小さく体をちぢこませている。

「尋ねる前にまず自分からって習わなかったのかな? ボクちゃんは」

俺は心休まるひと時をブチ壊されて不機嫌真っ只中、大人気ないとは思いつつ
も素直に教えることはしない。第一この子供のほうがよっぽど正体不明なので。

俺の台詞に顔を赤らめた子供は、キッと俺を睨みつけて怒鳴った。

「よ、余をフィエロンと知っての言葉か!」

「いぃえ〜知りませんねぇフィエロンなんて。何ソレお菓子?」

「なっなんという無礼な男だ!!余はフィエロンの第四子、ルシュディー・オー
 リス・ファリャ・フィエロンだぞッ」

「だから知らねっつってんだろこのクソガキ」

「ふぃひゃたたたたたた」

見目は良いがどうしようもなく可愛げに欠けているので、年長者として教育的
指導を施してみる。

「おやまーなんて良く伸びるほっぺたですこと」

「ひょのひゅれいひょのほのひぇほひゃなしぇぇえぇ!!」

「はっはっは、何言ってっかサッパリだな。こりゃ新種の生き物か何かか?」

「ふええぇぇえぇん!」

流石にこれ以上やるとまた泣き出しそうだったので、仕方なく両手を顔から離
す。既に半泣き一歩手前だったが、子供は自分の頬をさすりながら涙目で俺を
睨んだ。

「貴様・・・・!!」

問答無用で頭をどつく。

「“お兄さん”だろ?」

「き、貴様よくも」

「お・に・い・さ・ん」

「・・・余に二度も手を上げてただですむと」

「俺のしつけは厳しいぞ?」

「・・・・・・・。
 ・・・・そなたは一体、何者なのだ・・・・」

優しく訂正する俺に、怒っていた子供は戸惑ったように瞳を揺らした。なんだ
かちょっと可哀そうになってきたので、濡れた銀色の頭をくしゃくしゃに撫で
回す。そして驚いたように体を硬直させた子供に、俺はニッと笑いかけた。

「俺はなあ、」

「じーーーーん、ジン、陣!!ちょっとこれ冷蔵庫入れといてーー!」

突然お袋の大声がして、俺は慌てて風呂から身を乗り出して応えた。

「今風呂入ってっからちょっと待っとけ!!」

「もうまた〜?あんた女以上に長風呂なんだから」

「ほっとけ」

予定より早く帰ってきたお袋に、風呂場には来ないよう先手を打つ。そしてこ
の異常事態をどう説明すべきかと焦る俺の目に映ったのは、誰もいない湯気の
たつ浴槽。



「・・・・・頭は殴られてねぇハズなんだが」



独り風呂場に立ち尽くし、脳外科と精神科、どちらが俺に必要なのかと思案し
た17の春。




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