―――かわいいピンク色のドアの向こうから、賑やかな笑い声が響いてくる。
「あした、晴れるかなあ?」
「きっと晴れるよ」
「そうね、月がとても綺麗だもの」
お父さんの声はにがいコーヒーで、お母さんの声はやわらかいマーガレット。
細く開いたドアのすきまからは、いつもと変わらない光景がのぞいている。
「ね、あしたはね、ぜったいにサンドイッチなの。マーマレードと、イチゴのよ!」
そしてころがる甘いキャンディみたいな声の持ち主が、ぴょんとイスから降りてお母さんに抱きついた。
「ええ、約束ね。でも、ミーナは早起き出来るかしら?」
「できるもん!」かわいいかわいい声がして、お父さんにおやすみのキスを貰う。
リスみたいに駆け出して、ほら、僕にもおやすみのキスをくれるよ。
「プラムもおやすみなさい!」
僕の大好きなチョコレート色の瞳がほほえんで、さあ、お母さんがブランケットを持ち上げると、
ミーナは僕を抱えて横になった。
「おやすみなさい、ミーナ。プラム」
お母さんはミーナにやさしいキスをすると、そっとピンク色のドアを閉じた。
『・・・・・・・・・・・・』
――かわいいかわいい僕のミーナ、きっともう夢の中だね。
僕を抱えてベッドの中、夢の中にも僕はいるかい?
だけど僕は眠らないんだ。
だって僕は、僕は。
『――こんにちは、お月さま』
僕は夜に目を覚ます。
僕はミーナのひいおばあさんに作られた、世界でたった一つのテディベア。
ミーナというかわいい女の子が生まれてから、一針一針丁寧に作られた。
右足には金の糸でミーナの名前、瞳は何の変哲もない真っ黒ボタン。
だけどひいおばあさんは僕の毛皮をニワトコの実で染めたから、僕の毛皮は一風変わった赤レンガ色だ。
普通のベアとはちょっと違う、この毛皮を僕はとても誇りに思っている。
――それに。
こんな風にミーナの寝顔を眺められるのも、瞳と同じ色、やわらかい髪をなでられるのも。
きっと、ひいおばあさんがたくさんたくさんミーナのことを愛していたからだ。
小さくてかわいい僕のミーナは、お父さんとお母さんの愛の結晶。
それなら僕は、ひいおばあさんの愛の結晶だよ。
だから僕も、ミーナと同じように、こころをもって動けるんだろう。
『・・・ね、ミーナ』
こげ茶色の僕の口は太い糸で縫われているから、動かすことはできない。
声だって出すことはできないのだけれど、僕はそっとミーナに語りかけた。
『明日がきっと晴れるよう、僕もひいおばあさんにお願いしてみるね』
ミーナが生まれてから一年たって、ようやく僕は完成した。
ミーナの小さな腕が僕をいっぱいいっぱいに抱きしめるのを、ひいおばあさんは
ベッドの上からとてもうれしそうに見守っていたように思う。
普通のベアとはちょっと違う、僕の赤レンガ色の毛皮もお気に入り。
お父さんの好きなプラム・ジャムみたいだって、僕に名前もつけてくれた。
かわいいかわいい宝もの。お父さんとお母さんの愛の結晶。
お星さまになったひいおばあさんとの、たった一つの約束だよ。
僕はきみを守るために生まれた、赤レンガ色のテディベア・プラム。
*
窓の外はぴかぴかお日さま、白い雲でもくもくお絵描き。
僕に結ばれたリボンのように、空はどこまでも青く晴れ渡っている。
だけど僕のまわりは大雨小雨、おなかの中までしとしとだ。
『おはよう、ミーナ!』
今日はみんなでピクニック。お母さんは早くからキッチンでお料理、ピンク色のドアのすきまからは
新聞をめくる音がして、お父さんももう起きたみたい。
だけど僕の横ではミーナがうめき、苦しそうに僕を押しのけた。
僕はベッドから落ちそうになったけれど、朝が来たならただのベア、動いたりはしちゃいけない。ミーナはおばけが大嫌い。
『ミーナ、ミーナ、朝だよ!ほら、こんなにいい天気だよ!ミーナ、ミーナ?』
だけどちょっとだけ、ほんのちょっとだけ頭を動かしてみると、その途端、
ミーナの瞳から涙がこぼれるのが見えて、僕は驚いてベッドから転がり落ちてしまった。
『――ミーナ!』
「おはよう、ミーナ」
ぼすん、と跳ね落ちた僕の体、お母さんがドアをあけて朝のあいさつ、
いつも抱きしめられている僕が床に落ちていてお母さんの瞳はまんまるになる。
「ミーナ?」
白くてやわらかいお母さんの手が僕を拾いあげて、やさしくホコリをはらってくれた。
「プラムがいたいいたいって言ってるわ。どうしたの、ミーナ?」
仕上げに曲がったリボンを整え、僕を見てにっこり笑う。
――ううん、僕はちっとも痛くないさ。それよりも早く、ミーナを!
くしゃくしゃなブランケットに包まったミーナを見て、お母さんも僕をベッドに取り落とした。
「まあ、大変!」
ふうふう息はくミーナのおでこを、ぺたりと触ってああやっぱり、
お母さんはあわただしくドアの向こうに消えていく。大きく開きっぱなしのドアからは、
お母さんがどこかに電話をして、お父さんがこちらに来るのが見えた。
「・・・さむいよぅ・・・やだよぅ・・・」
涙をぽろぽろこぼしながら、ミーナは僕を抱きしめる。
ミーナは生まれつきとても体が弱かった。
このごろはとても調子がよかったから、ようやくみんなでピクニックに行けると思ったのに。
泣きつかれて眠ってしまったミーナの顔は、朝よりもずっと楽そうだった。
お医者さんのくれたお薬が、きっと効いてきたんだろう。
明日は仕事のお父さんは、となりの部屋で眠っている。
ずっと起きていたお母さんは、ミーナの横でまどろんでいる。
僕はミーナの腕の中から枕元へ、いつもと違う場所に腰かけながら、ずっとミーナの寝顔を見つめていた。
――ああ、ひいおばあさん。
僕はミーナを守りたいのに、何もしてあげることができない。
僕はミーナを守りたいのに、どうして僕はテディベアなんだい?
もしも僕に体温があったら、ミーナの熱をすべて移すのに!
もしも僕がお医者さんだったら、ミーナの体を元気にしてあげる。
もしも僕が人間だったら、ミーナを、ミーナを、ミーナを・・・。
――もしも僕に涙があったら、きっと今こぼれ落ちるだろう。
『なんだ、赤熊プラム。ずいぶんしけたツラしてるじゃないか』
『!!』
夜空の見える真横の窓に、ひょいとのぞいた黒い影。
突然の訪問者に驚いて手足をばたつかせれば、ケラケラとおかしそうな笑い声がひびいた。
『ト、トニトルス!』
暗闇の中でもらんらんと輝くふたつの瞳は、雷(トニトルス)のような金の色。
夜にまぎれる灰まじりの黒い毛は、ごうごうとその体をおおってまるで雷雲。
窓の向こうから僕を見下ろしていたのは、神出鬼没な黒猫・トニトルスだった。
『・・・また僕になんのようだい? 右足の金の刺繍だって首の青いリボンだって、
君にあげられるものなんかひとつもありはしないよ!』
いつのころからかこの家に現れるようになった彼・トニトルスは、生きものでもないのに
意思をもった僕がたいそうお気に召したらしく、それからというもの何度も何度も僕をからかいにやってきた。
僕の右足の裏を彩るきれいな金糸のミーナの名前も、ミーナがくれた青いリボンも、
珍しいもの好きな彼はコレクションに加えるといってはばからない。
『――ふん、お前から献上されなくたって、自分のコレクションは自分で手に入れるさ!』
僕が人以外の言葉を聞いたのは彼が初めてだ。
窓の外をとびかう鳥、虫、ゆれる草・・・。
近いようでとても遠い、たくさんの生きものたち。
だれも僕のことには気づかなかったのに、なぜか彼は僕の声に気がついた。
『・・・おや?
また大事なご主人様はおねんねかい、赤熊プラム』
ガラス越しに牙がぎらり、三日月のような真っ赤な口が何もできない僕を笑う。
僕はかなしくってかなしくって、黒いボタンの目を伏せるようにうなだれた。
『・・・・トニトルス、君にはわからないよ・・・・』
僕はとてもうれしかった。
はじめて僕の声が誰かに届いて。
僕はとてもうらやましかった。
自由に生きる彼のことが。
僕はとてもくやしかった。
何もできないテディ・ベアだから。
つくりものの自分が、だいきらいになった。
『・・・君には、わからないよ・・・・』
どうして僕は涙を流せないのだろう?
このかなしみを少しでも外に出せたなら、少しは楽になれるのに。
痛むばかりで何もない、綿のつまった胸をおさえて僕は口をゆがませた。
『なんだって? 何がわからないっていうんだ、赤熊プラム』
だまりこむ僕をつまらなそうに、窓ガラスをガリガリ爪でひっかく。
『おれが何をわからないっていうんだ!』
ガオ、と雷のようにほえたトニトルスは、今まで見たことがないほど怒っていた。
『だ、だって、君と僕はちがうじゃないか・・・』
言いごもる僕をあざけるように、トニトルスは尻尾をふりあげた。
『どこが違う? 何が違う?』
『君は生きてる。命がある』
『お前は生きていないのか?』
『だって僕はつくりものだもの!』
『おれだって神さまのつくりものさ』
『君とミーナは同じだよ。だけど僕はちがうんだ』
『こころをもって動いてる。それ以上何が必要だ?』
『涙を。声を。ぬくもりを!
僕は生きている証が欲しい!』
バン! と窓ガラスが音を立て、僕はびっくりして彼を見た。
『おれはこれが何だか知っている。何度も何度もぶつかった。
おれはこれの開け方を知っている。何度も何度も飛びついた。
おれはおれのことを知っている。おれに出来ることなら何でもやった。
――生きている証? そんなもの、このおれだけで十分だ!』
見上げた彼は大きくて、ほんものの雷雲のようだった。
『おれには他に何もない。おれはおれを生きている!』
そう言い放ったトニトルスは、世界でいちばん輝いて見えた。
『・・・・僕は・・・・僕は・・・・』
僕は何をしただろう。
僕には何ができるのだろう。
僕は何を知っている?
僕はほんとうに生きている?
光るふたつの金の目が、僕のこころに雷を落とした。
『お前が何もわからないのは当たり前さ。だって何もしちゃいないんだから!』
『!!』
動けない僕を見下ろして、トニトルスは鋭く牙をむいた。
『お前はいつも座ってばかり、何もしないのろまな熊!
お前はいつも無いものねだり、何もしない馬鹿な熊!
お前は生きちゃいないのか?
おれとお前は違うのか?
おおその通りだ、赤熊プラム!
お前は生きちゃいないのさ!
ただそこにいるだけで
ただそこにいるだけで!』
僕は何もいえなかった。
まるでただのテディ・ベアになったみたいに。
――ううん、ちがう!
今の僕はテディ・ベアだ。
ほんとうにただのぬいぐるみだ。
動けるのに動こうとしない、
ほんとうにただのテディ・ベアだ!
『――トニトルス!』
枕元から立ち上がり、ベッドのふちから窓の台へ、よじのぼった僕は窓ガラスに両手をついた。
『トニトルス、僕はたとえミーナとおしゃべり出来なくても、
きみたちのようなぬくもりがなくっても、僕はこうやって動くことができるよ。
考えることができるよ。こころで感じることができるよ』
ぺたりとガラスに額をつける。
『そうだよ。こんなにたくさん、僕にはできることがあるよ。
たとえ、テディ・ベアでも。僕には、たくさんある!』
だって僕は、世界でたったひとつの特別なテディ・ベアなんだから!
見上げた僕のボタンの先で、金色の瞳がニヤリと笑った。
『ならひとつ試してみるか、赤熊プラム』
ひょいっと身軽に柵をこえ、手招くように尻尾をゆらす。
『お前はそいつを開けれるかい?』
『え?』
僕と彼をへだてるのは、大きな二枚の窓ガラス。
『おれにはそれは開けられない。中から鍵がかかってるから』
毎晩お母さんが閉めるそれを、僕はじっと見上げてみた。
『お前にはそれが出来るかい?』
僕はずっと鍵を見上げたまま、ずっと何も言わなかった。
『―――――えい!』
『!!』
そしてトニトルスがあくびをした瞬間、思いっきりジャンプする。
僕にはぜったい届かないと思った鍵は、あっけなく僕の手にひっかかった。
『・・・で、できた!』
とびはねて喜ぶ僕をしりめに、柵から降りたトニトルスはカシカシ窓ガラスをひっかく。
するとスルリと窓に隙間ができて、トニトルスは簡単に窓をあけた。
『ト、トニトルス?』
きみがあけたら意味がないよ・・・。
見上げる僕にのどを鳴らし、トニトルスはなんだかとってもごきげん。
首をかしげる僕にむけて、口も瞳も三日月にした。
『何をグズグズしてるんだ? 早くしないと朝が来るぞ』
なんのことだいトニトルス?
『窓が開いたらお次は当然、外に出るに決まってる!』
――ええええ?!
『さすがにそれはできないよ!』
『出来ない理由はないだろう?』
『もしもいなくなったことに気づかれたら・・・』
『そしたらこっそり戻ればいいさ。
ベッドの下に潜りこめば、落としたとでも思われる』
『ミーナに嘘をつくなんて!』
『生きるには知恵も必要なのさ』
『ミーナのそばを離れるなんて・・・』
『見舞いの花でも摘んでこいよ』
『・・・外を歩いたら破けちゃうかも』
『おれの背中に乗せてやるさ、大事なおれのコレクション!』
大きな黒い背中にむかって、僕は思いきりジャンプした。
Dreaming teddy
「ママ、みて!窓の外にきれいなお花がおちてるの!」
「まあ、本当。きっと小鳥さんからのプレゼントね」