或る男の数奇な人生、その述懐


・・・・と、もしもこの手記にタイトルを付けるとしたらそうなるのだろうが、私の人生を
語る上で、そう多くの言葉は必要とされない。

 私は豊かな海に囲まれた「海と虹の王国」、その中の小さな港町で生を受けた。
家は小さいながらもそこそこ繁盛する料理屋で、漁師の父が日々新鮮な魚を運び、料理
上手と評判の母が暖かな家庭料理をふるまう。一つ年上の兄は父と同じく漁師になり、五
つ年下の妹は看板娘として母と一緒に料理屋を切り盛りしていた。

 そして世の中の例に漏れず、勝手気儘に育った次男は家業を手伝うことも無く、立身出
世を夢見て王都へと飛び出したわけだ。

 もちろん、そこそこ腕に覚えがあったとはいえ一介の田舎者、何という目覚しい出世を
遂げることも無く、私は故郷から程近い貿易港の沿岸警備隊に配属された。

 家を出てから音信不通、数年ぶりに里帰りした次男坊を、それでも両親は身内から隊士
が生まれたことを殊の外喜んでくれたし、朴訥だった兄もその夜は多くの酒を飲み、口う
るさいと思っていた妹は泣いて手料理をふるまってくれた。
母と変わらぬその味を、生涯忘れることは無い。
 晩生な兄に嫁の来手はまだまだ無いようだったが、子ども子どもだと思っていた妹には
いつの間にか婚約者が出来ていた。それも驚いたことに私の幼馴染であったから、ここぞ
とばかりに拳をお見舞いしてみせもした。町医者の息子だった幼馴染は腹を押さえて苦笑
したが、私も妹に殴られた頬を押さえて笑った。
あれほどつまらなく見えた手垢じみた幸せが、何よりも幸福に思えた。


それから三年後、妹夫婦に男の子が産まれた。妹に似た可愛い赤ん坊だった。


それから一年後、私は沿岸警備隊の副隊長になった。任命状を持って帰郷すると、兄から
照れ臭そうに一人の女性を紹介された。朴訥な兄に似合いの優しそうな人だった。



それから半年後、魔物が町を襲撃していると知らせを受けた。暗い嵐の夜だった。



町の名前は故郷の名だった。




・・・・海には多くの魔物が棲んでいる。だから人間はこれまで多くの犠牲を払って来たし、同
時に対抗する術も学んできた。港町は、それ自体が組み上げられた結界だった。

魔物は、一匹では無かった。

詳しいことは判っていない。いや、私達には知らされていない。その日も海に何の異常
は無く、近隣で一番大きな警備隊である私達は夜警の者を除き宿舎へと戻っていた。私は
翌日非番であったから、同じく非番の者達と共にカードゲームに興じていた。勤勉な隊長
への揶揄、近頃続く窃盗事件の管轄について、見かけた良い女の話、仕事の愚痴――

 変わることの無い日々を語り合い、酒を酌み交わし合い。夜半も過ぎた頃、一人の隊員
が席を立った。椅子を蹴り倒すほどの勢いだった。

「どうした、ホークス」
「負けが込みすぎてキれたのか?」
「ほら、これでも飲んで落ち着け」
「っておぉい、こいつフォーカードですけど!」
「何ィ!?いっつもいつも余裕ぶっこきやがって・・・!」
「なんだぁ、勝ち逃げかぁホークス」

そう、名前はホークス・ブライト。魔術師崩れの男だった。

「・・・・ホークス?」

酔った仲間に札を投げられ、体を叩かれ。それでも身動き一つすることは無く、その尋常
では無い様子に未だ正気の私が問えば、いつか見たからくり人形のように首が動いた。

「・・・どうした? 気分でも悪いのか?」

挫折したとはいえ彼の感は常人より鋭い。その分落ち着きも人一倍あったホークスが、子
どものように目を見開いて歯を鳴らした。

囁く。



「――――くる――――」



その一瞬後、大地が震えた。



「――・・・・っな!?」

 酔っていた仲間達も即座に立ち上がる。足元から這い上がる地響きは、津波の発生を示唆
していた。

「―――緊急警報発令っ、今すぐにだ!避難誘導は一斑から十一班、 十二班は震源地と原
 因を調査!十三班、避難区域の整備、ベルとトマスは議長の元へ急げ!!」

小刻みに揺れ続ける大地、連続する不気味な衝撃。予測される津波の大きさは言葉になら
ず、皆言われるまでも無く迅速に行動を開始していた。

ホークス以外は。

「っ何をしてる、さっさと動け!!」

私は立ち尽くすホークスに怒鳴りつけ、その脇を走り抜けようとした。私が隊の中で誰よ
りも足が速く、誰よりも先に今夜の夜警を勤める隊長の元へと急がねばならない。
しかし、通り抜けざま強く腕を掴まれたたらを踏んだ。

「――ッホっ「駄目だ駄目だもう駄目だ、いっちゃ駄目だ副長もう駄目だ・・・・!」

顔を引き攣らせ叫び続けるホークス。そんな彼に私は一瞬呆気に取られた。
一体何をそこまで脅えるのか。何がそこまで彼を豹変させるのか。

だが、騒ぎ出した夜の海に、私がそれ以上彼を気にかけることは無かった。


「・・・・もういい、お前は此処で待機してろ!」




―――彼の一族は、代々多くの千里眼を輩出したという。

あの時、彼の目にも何かが映っていたのだろうか。














「―――隊長!」

 空には捩れた暗雲が立ち込め、強い風だけが漆黒の海をうねらせている海岸線。
それを見渡す防波堤の上で指示を飛ばしていた隊長は、走ってきた私を見て眉を顰めた。

「・・・・訳が判らん」
「何がです、震源地は確認出来ましたか、原因は」
「それが判らんと言っとんのだ。震源地は南西におよそ百四十キロ、海上での複数回によ
 る爆発が原因。しかしその原因が判らん」
「南西? こんな夜に船を出す商会も漁師もいやしませんよ、一体どこの阿呆ですか!
 第一今日は出港停止命令も――、・・・・難破して爆発?それにしてはあまりにも規模が」
「だからそれが判らんと言っとろうが」

高台に作られた塔から警鐘が鳴り響き、仲間に誘導された人々が明かりの筋となって丘を
登っていく。この国で津波は最も恐ろしく最も馴染み深い災害、人々に混乱の色は無い。

私の脳裏に、ランプの下で揺れる青褪めた顔が浮かんだ。

「・・・・・・ホークスが」
「何?」
「・・・第一班、ホークス・ブライトが、異常な言動を」
「―――――――」

ブライト?と口中で繰り返した隊長が、顔色を変えて海の果てを見つめた。

「隊長?」

食い入るように身を乗り出していた隊長の下へ、別働隊の人間が駆け寄って来る。


「―――お知らせします!!第一級戒厳令発令ッ、第一級戒厳令発令!大至急会議堂へお
 集まり下さい!!繰り返します!第一級戒厳令発令、第一級戒厳令発令ッ、至急――・・・」

「「!!!?」」


第一級戒厳令。
それは、高位の魔象による非常事態の発生を意味する。

その権限は、国家。



言葉も無く走り出した私の耳に、「――腐ってもブライトか」と吐き捨てた隊長の声と、繰
り返し繰り返し私を引き止めた彼の声が響いた。




*




「―――南南西一四一・一二キロ、同海上に魔獣発生。その正体は依然不明、連続した爆
 発は魔獣による攻撃と見られる。余波による津波は第一波及び第二波が既に到着、被害
 は商船九隻その他少数。人的被害は報告されていません」

「周辺の街道・海上は封鎖、」

「警備隊は引き続き住民の避難・警護を続行。到着した騎士団・魔術師らの指示を仰げ」

「―――以上!」


 物々しい空気の中、集まった司令官が散らばっていく。中規模の貿易港ではかつてない
厳戒態勢に、私は初めて見る魔術師達を盗み見ながら隊長に問いかけた。

「一体何があったって言うんですかね。あっ、見て下さいよあの人!まさかあれ〈灰〉の
 魔術師じゃ」
「お前は黙っとけ。まずは避難所に着いてからだ」

黙々と歩く隊長を追い越し、翠色のローブを着込んだ男が足早に港へと向かって行く。
そびえ立つ防波堤には波飛沫が上がり、一部決壊した防波堤からは黒い水が流れ込んでい
た。続く第二、第三防波堤まで津波は襲い、強風と轟音が街を支配している。

私達が第七避難所に着いた時、既に街一体は王都の騎士団に完全封鎖されていた。

「――おかしいじゃないですか、魔獣、魔獣ですよ? 何で魔獣がいきなり海の上に発生す
 るっていうんです、おかしいじゃないですか」
「・・・魔物に常識なんぞ通用せんわ」
「それでもです!第一級戒厳令なんて初めて聞きましたよ、一体何だって言うんですかっ」
「お前が興奮してどうする。この発令はそう無いことでもない、現れた魔獣がそれだけ高
 位だったってこった」
「だからどうしてそんな魔獣がこの海に突然――・・・・」


 爆発による地震発生、津波到着から約一時間。既に余波も収まり、後は波が引くのを待
つばかりだというのに、騎士団の包囲は未だ解かれることは無い。噂に聞く上位魔術師た
ちは、何事かを呟きながら結界を強めていく。



肌を刺すような緊張が、全員の間に漂っていた。



・・・・隊長と二人、見張り台から静まりゆく黒い水平線を見つめていた私の耳にそれが飛び込ん
できたのは、神の慈悲だったのか、それとも。



「―――進路を外れました!対象は此処より更に南下、予測地点より大幅に迂回」
「―――何処だ、何処に向かって・・・・・・ブラート!?そんな馬鹿な!」
「―――対象は既に第二段階を突破、増殖」
「―――応援間に合いませんッ、一、二、三――――来ます!!」




空気が。




世界が、割れる音がした。








・・・・圧迫された呼吸、膨張・収斂した空気。

その全てが収束すると同時に、私の身体は見張り台から転がり落ちていた。


「―――ッアレクセル!!」
 

背後で、隊長が私の名を叫んでいたような覚えもあるが、定かでは無い。




ブラート。



この貿易港を更に南に下り、穏やかな入り江が広がる小さな港町。




〈親愛なる〉、名の、



 私の。









「報告します。既存の〈灰〉によって第一波は相殺、〈灰〉及び結界共に崩壊しました。
 同時に〈白〉が到着、対象の殲滅を開始。〈青〉は三十秒後に到着予定」
「―――〈青〉、結界の回復に失敗。数は四十を突破」
「〈核〉の位置は現在も不明」
「・・・〈灰〉、到着しました」
「反動来ます!〈碧〉は詠唱開始!」
「〈白〉、〈核〉を確定ッ」「〈青〉〈灰〉、〈核〉を包囲――・・・」



この事件は、後に〈破光の断罪〉と呼ばれることになる。


死者は魔術師を含め無数に上り、町二つを壊滅させた王国史上最悪の魔象事件だった。



あの世界を、表す術を私は知らない。





「―――アレクセルッ、おいッ、しっかりしろっ」

ぬるりと顔を這う感触に目を開けると、隊長が私の頭部を押さえ込んでいた。

「・・・・隊長・・・?一体、なにが・・・・」
「何がじゃないわこの阿呆!それでも俺の副官かッ、鍛え直しだ呆け!」
「は―――?」

陽に焼けた頬に泥をはねつけ、私の腕を肩に回して担ぎ上げる。
引きずられるようにして歩きながら、私は避難所へと戻っていた。


街は、美しかった。


夜の海に呑み込まれた港、黒くそびえる防波堤―――

その全てが碧い燐光に包まれ、恐慌に陥っていた人々も呆然とそれを眺めている。

彼らは、自分達が居るその場所も、同じように光っていたことを知っていただろうか。



私は見た。



美しく守られたこの街の、南の空が赤く燃えているのを。




私は見た。




故郷の空が、ひび割れる瞬間を。









・・・・・あの時の私の気持ちを、理解出来る者はいるだろうか。
同じあの時あの場所で、同じものを見た者でなければ判らないだろう。

そして、同じ故郷を知らなければ。



「―――――アレクセル!!?」


私は隊長を突き放して走り出した。

とにかく家族の元へと走りたかった。

それ以外のことなど考えてはいなかった。


私の足が速かったのも、私の目が良かったのも。全てはこの日の為にあったのだと。


「―――・・・・な―――ッ!?」


見張り台から遠く見下ろす広場の中心、そこで魔術師たちは陣を敷いていた。

誰も、私に注意など払ってはいなかった。

陣の中央、〈灰〉の魔術師が杖を振り下ろす瞬間。

私は、その中へと飛び込んでいた。







*







「――っき、君は何を考えているんだ?!転移の瞬間に飛び込むなんぞ正気の沙汰じゃな
 いッもしも失敗したらどうなっていたと――」

 次に気が付くと、私の両肩を掴んで〈灰〉の魔術師が喚き散らしていた。意識のはっき
りしない私を睨み、もどかしそうに懐から何かを取り出す。

「――ッぶッ!?」
「それでも噛んで早く逃げろっ、この大馬鹿者が!!」
「〜〜〜〜ッッ!?!?」

あの口の中一杯に広がった刺激臭、これも生涯忘れはしない。

あまりと言えばあまりな方法、のた打ち回って悶え苦しんだ挙句、私の朦朧とした意識は
完膚なきまでに叩きのめされた。


涙を拭きながら見回せば、魔術師の姿は何処にも無い。


「・・・・恩に着る」

見下ろした自分の身体、街と同じように淡い燐光を放つそれを見て、私は名も知らぬ魔術
師に感謝を捧げ再び走り出した。



・・・・それから私の家に辿り着くまでの数十分、その間のことは前にも述べた通り、語ろうに
も語るべき言葉を私は持ってはいない。



あれは地獄だったのか混沌だったのか絶望だったのか。



――いつも賑やかな声に包まれていた私の家は崩れゆく絶叫に掻き消され、炎が全てを呑
み込もうとしている。父が魚を運んでいた荷台には黒ずんだ何かがもたれかかり、兄と造
った物置小屋は既に形を成していない。母がいつも立ち働いていた台所は飛び込んできた
何処かの外壁に押し潰され、母がいつも掃き清めていた大地はおぞましい色に穢れている。
いくつもの見たことの無いものが、破片が、部品が。海のほうから悲鳴が聞こえる。ひび
割れた空の下、幾人もの魔術師たちが滅びの言葉を囁いている――


 妹夫婦は海から離れた林の傍で暮らしていた。

幼馴染は父親の後を継いで医者になり、町外れの家で妹と共に暮らし始めた。生まれた
ばかりの甥とは、まだ三度しか会ったことは無かった。


「――――ユーゲンッ、ユーゲン、アルティナ!!」


なぜかその時、町は静寂に包まれていた。

あれほど切り捨てた魔物の影も、燃え盛る炎の哄笑も、壊れ逝く町の怨嗟も。


何も、聞こえなかった。


何も。



「―――返事をしてくれ、アルティナ、ティーナ。居ないのか、ユーゲン――」



海から最も離れたその家も、町と変わりはしなかった。


幼馴染と登った林檎の木は、もう二度と実をつけることは無い。

嫁ぐ妹に持たせた鏡は、最後に何を映したのだろうか。




「・・・・・・・・ナキト・・・・・・・・!」




無音の世界を切り裂くように、赤ん坊の声がした。




「――――――――!!!」




――ああ、あの瞬間、あの瞬間の胸の震え、あれは私だけのものだ!



焼け焦げた壁と瓦礫に埋もれ、途中、重なるようにして死んでいた二人の、その下に隠さ
れていた扉を開けた、私の手の震えは。




―――甥は―――、・・・・・ナキトは、生きていた。




生きていたのだ。






「義父さん、只今帰りました―――っと、何を?」
「いや、私も歳をとったものだと思ってね」
「何をまた、まだたったの四十七でしょうに」
「人生八十年、折り返し地点はとうに過ぎたよ」
「それでもです。これから伴侶を求めてもおかしくありませんよ」
「はは、お前ももう二十歳か。いや、本当に時が経つのは早い・・・・」
「・・・・義父さん、聞いてます?」




・・・・・私の人生を大きく変えた運命の日、思ったよりもページを割いてしまったが、言葉に
すれば何と味気無いものか。

 それから私は忘れ形見のナキトを引き取り、警備隊を辞めて商隊に入った。辞めたと言
ってもほぼクビ同然、第一級戒厳令という王命に逆らった挙句、〈灰〉の魔術師の妨害まで
しておいて命があることが不思議でならない。

――そう、あの〈灰〉の魔術師、彼とはまた運命的な再会を果たすことになったのだが、
それはまた割愛する。

彼との再会で大きく変わったのは、私ではなくナキトの運命だ。

ナキトの実父、私の親愛なる幼馴染・ユーゲンの祖父は、「雪と湖の国」の出身だったらし
い。成長するにつれユーゲンの面影を濃くしたナキトは、彼の血筋に伝わる魔力も開花さ
せていった。


そして、ナキトはめでたく彼の〈灰〉の魔術師の弟子となったのである。



「――まさかお前が魔術師になれるなんてなぁ。いやぁ、本当に立派に育ってくれた」
「今の僕があるのは、全て義父さんの力ですよ」
「はは、イルに聞いたがお前、最年少で〈灰〉の昇格試験に挑戦したんだってな?それは
 お前の努力の賜物だ。おめでとう」
「・・・・・・・・師匠、来たんですか」
「ん? ああ、お前の受験を知らせにな。黙ってるなんて酷いじゃないか」
「・・・・いえ、受かるかどうか判りませんでしたし、合格してからお知らせしようと」
「と、いうことは、見事合格したということか?」
「――はい」
「っそうか!そうか、それはめでたいな!いや、本当に何て言ったら良いか・・・・いかん、
 涙が出てきた」


 ナキトを修行に送り出し、「雪と湖の国」のはずれに居を構えて幾年月。
紆余曲折はあったが、今日という日を迎えられたことに感謝を。


「あぁ、もう本当に思い残すことなんか何も無いな!」
「・・・・義父さん・・・・」

 熱くなった目頭を押さえ、しみじみと呟く私にナキトが苦笑する。
その顔がまた、いつか見たユーゲンの顔とそっくりで、私は込み上げて来た熱い塊を涙と
共に飲み下した。










――――――――――――











―――・・・嗚呼。

今読み返しただけでも泣けてくる。


それが何故、こんなことに・・・・・



後はただ、平穏な余生を送るだけの筈だったのに。



「―――っな、ななななな、ナキトーーーー!!!?」
「どうしたんですか義父さッ――――ぁあ、成功したんですね」
「何を言っているんだお前は!?成功って何だ!?」
「・・・そのままの意味ですが」
「!?!?」


―――ナキトが見事〈灰〉の称号を戴き、喜びに満ちて祝杯を挙げた前夜。

年と共に酒に弱り、酔った私は父と母、兄に妹夫婦の名を叫びながら倒れ込むように横に
なったことは覚えている。

その時は、間違いなく私は私のままだった。

いや、これも私であることに変わりは無いのだが、私では無いのだ!


「一体何がどうなって―――!!」


鏡の中で混乱に顔を歪める男。

肌は変わらず陽に焼けた色、しかし馴染んだ皺はどこにも無い。

髪は潮にさらした抜けた色合い、しかし砂金に混じる白髪はどこにも無い。

今も昔も変わらないのは、故郷の海と同じ色。


「・・・・わ、若返って、」


目眩がした。


「――義父さん、去年の誕生日に言ったじゃないですか。

 “後二十年若かったら、恋の一つや二つする気にもなれるがな” って。

 ・・・・僕はそれを聞いて決心しました。一日も早く〈灰〉の魔術師になって、若返りの魔
 術を会得してみせると!」


鏡の中、物静かなナキトが珍しくも熱弁を振るう。


そんな、全てが異常な鏡の世界を尻目に、私は意識を手放した。






――――終わった筈の数奇な人生、今からこそ始まりを告げるらしい。











                        或る男の数奇な人生、その始まり