セフランは小さな国です。
隣国のアフレイドもさほど大きな国ではありませんでしたが、セフランはそれよりも更に小さな国でした。
誇れるものといえば千年の歴史ばかり、北の大国よりも百年ほど古い大陸の草創です。
昨今は南の諸国を呑み込んで急成長したラムンカルと北の大国イングに挟まれ非常に肩身の狭い思いをしておりましたが、
気が付けば隣国のアフレイドは南のラムンカルに侵略され、いつの間にかセフラン央国は北と南、ふたつの大国の睨み合いの
真っ只中に立たされておりました。
由緒だけは立派なセフラン央国、いつどちらの国から攻められるか、いっそどちらかの属国となるか、昼も夜もなく戦々恐々とする毎日が続きます。
北のイングと南のラムンカルにしても、いつラムンカルがセフランに侵攻するか、それともこのまま膠着状態が続くのか、
下手をすれば大戦の幕開けともなりかねない事態に日々緊張は高まっておりました。
僕らがセフラン央国を旅立ったのは、そんなときでした。
「――ねえ」
「はい」
「ねえ」
「はい」
「これは夢なんだろうか」
「いいえ、現実です」
愛らしい栗毛の馬上から首をめぐらし、見目麗しい男性が僕の頭を見下ろしました。
ほとほとと冷たい雫が滴り落ちているのに気が付きましたが、いつものことなので前を向いたまま絹の布を差し出します。
「・・・とてもおそろしい夢を見たんだ。血まみれの怪物がわたしを追ってやってくる」
「それは夢ではありません」
「空はこんなに明るいのに」
「殿下を追う怪物は、たとえ昼でも消えはしません」
「そうだろうね、今が夢ではないのだとしたら」
ほとほとと落ち続ける涙を気にも留めず、馬上の貴人は呟きました。
「・・・もう殿下と呼ぶのはやめてくれ。たとえ君しかいないのだとしても」
この方の名はアフレイド。アフレイド=マティス・レィヴェン殿下。
今は無きアフレイド公国の公子様です。
アフレイド公国とセフラン央国は長く親密な関係を築いておりました。
先々代のセフラン国王の御生母はアフレイド公国の公女殿下でしたし、最後のアフレイド大公となったメィヴェル陛下の元には
セフラン央国から第一王女殿下が御輿入れなさっておりました。
メイヴェル陛下の末の弟君、レイヴェン殿下がセフラン央国に滞在なさっていたのも、そのような御縁になります。
レイヴェン殿下は大変遅くにお生まれになったせいか、大変甘やかされてお育ちになりました。見目麗しいご兄弟の中にあってなお
際立つ華やかなお顔立ちも、それに一役買ったのではないかと思われます。
その結果、傍目には大層素晴らしい貴公子にご成長なさいましたが、内実はいつまでたっても夢見がちな世間知らずのままでした。
ある日突然 「わたしは吟遊詩人になる」 と言いだし、歴史あるぶん芸術にも優れたセフラン央国を訪問したのがいい例だと思います。
しかしそのために唯一人、ラムンカルとの戦乱を免れたとは、なんという皮肉な僥倖でしょうか。
その月、ラムンカルはアフレイドへと侵攻し、事実上アフレイド公家は滅亡したのでした。
「すべてが消えてしまった。もう戻ることはできない。
君を巻き込んでしまったことだけが心残りだ」
「縁起でもないことを仰らないで下さい」
「君も怪物に呑み込まれてしまう」
「呑み込まれる前に逃げるのです」
「終わるのはわたしだけで良いのに」
「これから始まるところです」
「どこからが終わりでどこからが始まりなんだろう。
君が呼ぶ殿下はもう死んでしまったに違いない」
「貴方は生きています」
「いつまで?」
「いつまででも」
「終わりはどこに」
「それを探しにいくのです」
「どこまで?」
「どこまででも」
「君も一緒に?」
「貴方が望まずとも」
「そうか」
「はい」
「・・・そうか」
「はい」
世界の終わりが見たいという
アフレイド公国が滅亡したあの日、僕を拾い育てて下さったセフラン国王陛下は仰いました。
――今は亡き友、勇敢なるメイヴェルの愛する末弟、遺されしアフレイドをラムンカルの手の届かぬ海の彼方までお逃がしせよと。
この世に生まれ出でて十五年、剣も学も芸術も、全ては陛下の御恩に報いるためひたすら高みを目指してまいりました。
たとえ歴史と芸術だけが取り柄の小国の内とはいえど、剣の腕にかけては最早並ぶもの無しとまで言われるようになったものです。
誰に気取られることなく、かといって力不足でもなく。
そのような難しい条件の中からこの僕を抜擢して下さったのだと思えば、これまで味わってきたどんな辛苦も全て昇華されるような心持ちです。
たとえ再び生きて陛下の元に戻ることが叶わなくても。
僕はその信頼に報いるため、全力をもってレィヴェン殿下をお守りします。
「・・・・公子たるわたしは国とともに消えたのだ。
これからはただのレイヴェンとして、いつかくる終わりまで生きよう」
――君と共に、と震えた声でおっしゃった殿下、いえレイヴェン様に、僕は万感の思いを込めて、
「――はい」
と頷きました。
その先は未だ見えず