生贄ってご存知ですか。
或いは人柱、人身御供・・・まあ、呼び方なんてどうでもいいんですけどね。
つまりは人間が神に捧げる犠牲のことですよ。飢饉、旱魃、水害――ありとあらゆる危難の中で、人間は神に生贄を捧げてきましたね。

・・・いやあ、人間って本当に恐ろしい生き物ですよね。それが本当に効くかも判らないのに、こんな方法を思いつくんですからね。
どこかの神様が言ったりしたんですかね?

「生贄の命と引き換えに、お前たちの願いをきいてやろう!」

――なんてね。
それってどんな鬼畜生ですか。

神様が人命を求める場合っていうのはね、たいてい二つの理由に分かれるんですよ。 もちろん人肉が大好物なんて血生臭い理由じゃありません、それじゃ魔物と大差ないですからね。 仮にも神を名乗るものが血を好んじゃあいけません。

・・・まあ、もちろん例外中の例外でそういう神様もいるにはいらっしゃるんですがね。そ れはね。例外ですからね。大体そんな神様にお願いしたって、たかだか人間の一人や二人 でどうこうしてくれるような生易しい神経はしてませんよ。そう考えるとまだ魔物のほうが 融通利く気がしないでも――いや、なんでもありませんなんでも。忘れて下さい。

えぇっと、だからね、神様は滅多に人間なんか求めないってことです。それもあれですよ、 人間が思ってるような意味での生贄なんかじゃないんですよ。
例えばね、罪人。神域を汚したやら、神様を侮辱したやら・・・そんな判りやすい理由で 命を奪うことはあります。あまりに血で穢れ過ぎた人間なんかは、それだけで禍の種を 産み落としたりしますからね。天誅、といいますか、粛清、といいますか。そんな感じで、 選び出した人間の命を摘み取ることもあります。
ほら、定期的に生贄を求めるなんていうのがあるでしょ? そういうのはね、 まず間違いなく魔物と見て問題ありませんよ。まあ人間にしてみたら、魔物も神も大差ないのかもしれませんが・・・。

後一つの理由というのもね、これもまたよく誤解されやすいんですが、決して非道な意味での 生贄なんかじゃないんですよ。ええ。神様だってねえ、永く生きてればお嫁さんの一人や二人、 欲しくなるってもんですよ。ええ。お嫁さん。
花嫁ですよ。

「・・・だからね、わたしもね、決して生贄が欲しいだなんて口に出した覚えはありませんよ。ええ。 ただちょっと 「お嫁さんが欲しいな」 って国主の夢枕に立っただけです。 それをなんですか、勝手に血生臭い解釈して人を化け物だのなんだの、 それって随分じゃありませんか。誰がかれこれウン百年もこの地を守ってると 思ってるんですか。それをあなたたちときたら、たった一度の妻乞いで爪弾きですか。 ああ恐ろしい!これだから人間はまったく!」

恐ろしいほど澄み切った池の周りで、うんうん唸りながら積み重なる人間たちを 横目に、池の上に浮かぶ銀色の人影はおよよと泣き崩れた。

倒れ臥す人間たちの中でただ一人、ボロボロになりながらも剣を 構えていた男は放心した様子で立ち尽くしていたが、

「挙句の果てには討伐隊。わたしの花嫁はどこへ。嗚呼、わたしのお気に入りの池が むさくるしい男どもで汚されてしまった・・・」

という嘆きの声が聞えた瞬間、鋭い剣先を突きつけた。

「――ふッざけるな貴様!貴様の何処が慈悲深い神だ!?貴様が伸した俺の家来どもがその目に入らんのかッ」

一喝する男の煌びやかな甲冑はところどころ傷ついてはいるものの、血は一滴たりとも 流れ出てはおらず、男の背後で倒れ臥す有象無象も意識はないようだったが、とり あえず外傷らしい外傷は無いようだった。
――何か問題でも?

首を傾げる人影にぶるぶると男の手が震える。

「・・・得体の知れぬ輩が七日七晩、毎夜夢の中に現れては 『嫁が欲しい』 『美しい娘を鏡名池(かがみないけ)へ・・・』 などと囁き続ければ魔物と云われても 文句は言えんわ!おかげで父は夜も眠れず、国の女どもは震え上がっている!!」

――その上!!

「国主の夢に出た魔物、つまり貴様が求める 『娘』 とは!それ即ち国主の娘、 つまり俺の妹だという判断が下されたのだ!!―――有り得ん!断じて有り得ん!! 寿々(じゅじゅ)を貴様の嫁にやるなど断じて有り得ん!!!」

あの耄碌爺どもめがッッ!!

ダンッと踏みつけられた地面から池に波紋が広がったが、浮かぶ人影は気にした 様子もなくツーっと岸辺に近づいていく。

「・・・寿々、寿々――わたしの記憶が正しければ、寿々理(じゅじゅり)姫はまだ七つだったと思いますが」

他の姫は残念なことに、みなさんどこぞへ嫁がれた筈。
銀の影の呟きに、ゆらり、と立ち上がる鬼が一匹。

「・・・そうだとも。一の姫も二の姫も、全て嫁いで乙女ではない」

・・・残るは寿々理ただ一人・・・。

バシャ、バシャ、影に近づく。

「・・・・う〜ん、そうですねぇ。流石に今すぐにとはいきませんが、あと十年経てば問題は全く・・・」

ヒュンっと空気を切り裂く音と同時、影の足元の水面が割れた。

「――百歩譲って神だろうと!!貴様に寿々はやらん!!!」

貴様など認めん!!!と叫びながら繰り出される剣戟に、するりするりと水面を滑りながら銀色が嘯く。

「・・・認めるもなにも、わたしがこの国の国ツ神だというのは変えようの無い事実ですからね。 この水津国(みなつのくに)で生まれ育ったもの全て、わたしに害を及ぼすことは出来ませんからね」

残念でしたね水津皇子(みなつのみこ)、あなたって生まれも育ちも水津国で。

うふふあはは、波紋を広げながら逃げ回る影に水津皇子が禍々しい笑みを刻む。

「・・・フフフハハハ、この俺が、この俺が!何の準備も無しに貴様を殺しに来たとでも思うのか!! この鏡名池に棲む魔物、つまり貴様が水属だということは既に判りきっていた事ッ」

だからわたしは魔物じゃないと。呟く声は高笑いに消える。

「・・・そりゃまあ、わたし、水神ですけども・・・」

卵か先か、鶏が先か。
わたしが水神だったから、この国は水の国になったわけで。

「・・・えぇっと、ほら、その剣も。それってこの国の宝剣ですよね? それはたしかにこの国で、最強の剣かもしれませんが・・・・・・すごく言いにくいんですけれども、 それをつくったのも、わたしですし」

だからあなたにわたしを倒すのは無理です。

言い淀んだわりにスッパリと言い切られ、絶望に打ちひしがれるかと思われた水津皇子は しかし余裕の態度を崩さなかった。

「――聞こえなかったのか貴様。この俺に、抜かりなどない!」

ぺいっと持っていた剣を叩き落し、背負っていた細長い布の塊に手を伸ばした。

「ああっちょっとなんてことするんですか!? それはあなたの国の宝剣でしょうが! そんな扱いしていいと思ってるんですか!?」

せっかくわたしが力を与えたのに!と慌てて拾い上げる影を尻目に、 水津皇子はスルスルと布を解き落とした。

「―――っそ、それは!?」

異様な気配を感じ取り、素早く振り向いた影の脇を一条の紅蓮が突き抜ける。 度を越えた熱気に歪む空気の向こう側で、水津皇子は黒い瞳を細めながら口の端を吊り上げた。

「――万が一、億が一にも有り得んとは思ったが、敵が神であった場合もこの俺の知略の内よ! よもやこれほどの阿呆神――あまつさえ我らが国ツ神だったとは流石に思わんかったが――否! 貴様のような阿呆を戴き続けることこそ、我が国最大の恥!!」

頭上で鋭く旋回し、ブオン、と鈍い音を立てて振り下ろされたのは、あかがね色に輝く一本の矛。

「水に対するは火! 貴様の相手は、この火陀矛(かだのほこ)だ!!」

矛先から逆巻く炎が生まれる。

銀の影は水津の宝剣をひしっと胸に抱き締めた。

「ああああああなたっ、それでも水津国の民ですかッ!? 本気で自国の神を他国の神の力を借りてどうこうするおつもりですか!! 第一なぜ火陀国(かだのくに)の宝物がここにあるんですかー!?」

元来剣の遣い手とは思えぬ見事な矛捌き、影はとっさに宝剣を抜き放つと突き出される矛先を右へ左へと受け流す。 現れた刀身には流れる水の文様が浮かび上がり、軌跡を青白く残していった。

「フッ、あの国には貸しがある。この程度の要求拒否する権利も無いわ!」

銀の影は火陀国に心底同情した。

「ってうぅわッ?!」

「ッチ!」

気を逸らせた隙に切り込まれた矛が、あわやというところで銀の残像を切り崩す。 皇子は惜しいとばかりに舌を鳴らし、影は慌てて池に戻った。

「――逃がすか!!」

躊躇なく投擲された矛が銀の影を掠める。が、苦痛の声は漏れない。
しかし霧が晴れるように銀の粒子が掻き消えて、後には一人の男が佇んでいた。

「・・・・・・・貴様・・・・・?」

青い髪が空を流れ、水底から見上げたような明るい瞳がじっと水津皇子を見つめている。

池に浮かぶ男は持っていた宝剣を投げ返すと、困ったように池を見下ろして大きな溜息をついた。

「・・・ああああ、よりにもよって火陀矛、火陀矛を投げ込みますか。ご覧なさい、 すごい勢いで場が乱れてるじゃありませんか」

見ればその名の通り、鏡の如く静謐だった水面が激しく渦を巻き、時折うねるように 盛り上がっては空中を踊り狂っている。その尋常ではない様子に流石の皇子も眉を寄せたが、 池の縁から身を引くことはなかった。

「・・・仕方ありません。甚だ不本意ですが、わたしから火陀命 (かだのみこと)にお返ししましょう」

告げる男の足先が透明になり、渦の中心へと溶け消えていく。

それを見た水津皇子は咄嗟に叫んだ。

「――――待て、水津命(みなつのみこと)!!」

少し驚いたように見開かれた瞳が、水津皇子の黒い瞳と交錯する。

暫くその姿を見つめていた水津皇子は、一拍置いて言い捨てた。

「・・・妹は、やらんぞ」

透明な瞳が、笑みを浮かべた。

「――十年後を、楽しみにしていますよ」

水が、流れ落ちた。









「・・・・・・えぇっと、水津皇子?
おかしいですね、先日のお別れから、十年どころかまだ一月も経っていないと思うんですが」

元の静けさを取り戻した鏡名池の中心で、水津命が胡坐をかきながらぼんやりと呟く。

岸辺には以前と変わらず武装した姿の水津皇子が一人、供も連れず水津命と対峙していた。

「まだわたしに何かご用ですか? わたし、これでも簡単に会える存在じゃないんですけどね」

流石に丸三日居座られて名を呼ばれ続けては、そのまま無視できるほど冷たい神経はしていない。 まんざら知らぬ仲でもあるまいし。

だけど二度はありませんよー、と水津命が頬杖をつくと、水津皇子は厳かに口を開いた。

「――父がな」

一歩、池に近づく。

「国ツ神の嫁ならば喜んで。直ぐにでも寿々を差し出そう。とな」

「・・・・・・はい?」

一歩、足が池に入る。

「七つまでは神の内。そう思えば相応しい――とな」

「・・・・・・・・いや、それはちょっと・・・・・」

先日とは間逆の淡々とした語り口、そのいやに単調な声が静まり返った鏡名池に響き渡る。

「――お可哀相に。父は過ぎたる心労で病み付かれてしまったのだ」

ざぶり、と膝まで浸かる皇子の足を、水津命は瞬きもせずに凝視した。
――なんだかとっても嫌な予感が。

「・・・ならば止むを得ん。父には大事をとって国主の座を降りて頂き、この俺が。 新たな水津国の国主となる」

ザブザブ近づく水津皇子に、とりあえず水津命は無難な返事をした。

「――そうですか。それはそれはおめでとうございます」

今日はわざわざそのご報告に? とさりげなく立ち上がった水津命の目の前で、 胸まで水に浸かった男が静かに頷いた。

「早桐(さぎり)だ」

「・・・は?」

「俺の名は、早桐という」

だからそれが?

「・・・・はあ、それは・・・・良い名ですねえ・・・」

水津命は適当に頷きながら離れようとしたが、 その両足を水津皇子早桐は目にも留まらぬ早業で鷲掴みにした。

「――ひいっ?!」

仮にも神の両足を、ただの人間が捕えるというこの偉業。

そんな馬鹿な?!と驚愕した水津命は、己を掴む手を見て戦慄した。

「あッ、ああああああなた、それッッ」

早桐の両手を覆うように、輝く黄金の手甲。

「――と、土岐那(ときな)の宝具――!?」

唖然として見下ろす水津命に、早桐は肩を震わせて哄笑した。

「――くっ、くくくく、アーッハッハッハッハッハ!!!」

ザバァッ!と早桐を包む池の水が消え、また流れ込む水を踏みつけるようにして水面の上へと立ち上がる。

その有り得ない現象に恐る恐る水津命が視線を降ろせば、崩れ落ちる脚絆の下から輝く黄金の具足が姿を現していた。

「っし、しかも完全装備ッ!?」

慄く水津命を見下ろし、その細い両肩を掴んで獰猛な笑みを刻んだ。

「・・・フフフハハハハ・・・どうだ!今度こそ逃げられまい!!」

「・・・・・・・・・・」

掴まれた肩から色々な意味で力が抜き取られていくような感覚に、水津命は心持ちげっそりした顔を早桐へ向けた。

「・・・・あなた、一体なにがしたいんですか・・・?」

もともと冗談半分だった神の妻乞いも、こんな面倒な人間を釣り上げてしまっては冗談でもその気は失せる。

いいですよ、何年経っても寿々理姫は迎えませんよ・・・と投げやりに水津命が呟けば、 当然だ、と返した男は横柄に顎を上げた。

「・・・お前の名は?」

「・・・は?」

到底人間業とは思えぬ所業を平然とこなしながら、更に神を問いただしてみせるこの男。・・・本当に人間?

「お前の名は何だ、と聞いている」

まさに神も恐れる異常を前に、水津命は生まれて初めて気が遠くなるという体験をした。

「・・・聞いているのか!?」

「ひぇっ!?」

何も答えない水津命にしびれを切らしたのか、早桐は眉をひそめて肩を掴む手に力を込める。 するとその意図と比例するように手甲の輝きが一層増し、我に返った水津命は慌てて男の両腕を引き剥がしにかかった。

「ちょっ、だからまたなんでこんなものが?!」

火陀矛(かだのほこ)といい土岐那具足(ときなのぐそく)といい、 この国はそんなによその国に恩を売り捌いているのだろうか。

ひいい、と水津命が金の輝きから顔をそらすと、早桐は嫌な笑みを浮かべた。

「・・・土岐那は今それどころではないからな」

・・・今更宝物の一つや二つ消えたところで・・・と呟く男に、水津命は一刻も早くこれを返さなければならないと思った。 ――まさか。

「――わかりましたもうなにも言わないでください。わたしがこれ以上わたしの国に偏見を抱く前に」

・・・もう遅いかもしれませんが・・・。
知らぬ間に非行に走った我が子を見てしまったように、しくしくと顔を両手で覆う。

そして 「そうまでして一体なにがしたいんですか・・・」 と水津命が嘆きの声を上げると、早桐は鬱陶しそうに眉を寄せた。

「・・・だからお前の名は何というのかと聞いているだろうがッ」

さっさと答えろ!と恫喝する男に、水津命は恐る恐る顔を上げた。

「・・・・・・まさか、それだけ・・・・・・?」

まるで得体の知れない生物でも見るように、早桐と名乗る黒髪黒目の男を見つめる。
・・・見た目は何の変哲もない青年なのに・・・。

尽くこれまでの常識を打ち破る男の姿に、水津命は慄然とした。

これはきっと人間じゃない、新種の人間に似た何かだ!

「貴様、聞いているのか!?」

ガクガクと肩を揺さぶられ、度重なる衝撃に空ろになった目を向ける。
その空ろでも濁りない瞳を覗き込んだ早桐は、ガシッと顔を両手で捉えた。

「――ひッ」

見開かれた水津命の視界一杯に、鬼気迫る表情を浮かべた端正な顔が広がる。

「お前の、名は?」

その気迫に気圧されて、水津命は答えた。

「みっ、瑞弥(みずや)、です・・・!」

・・・・真名じゃありませんけど・・・・。

心の声は外に響かず、早桐は満面の笑みを浮かべた。

「そうか・・・瑞弥か」

「・・・・・・・・・」

その酷く嬉しそうな早桐の様子に、水津命の罪悪感がなぜか刺激される。
――なぜ、どうして、わたしは何も。

そんな水津命の葛藤には露ほども気づかない男は、これで目的は果たしたといわんばかりの顔で高らかに宣言した。

「――今に見ているがいい。この俺が国主となった暁には、この水津国が最上の国となる!!」

――楽しみに待っていろ、瑞弥!

そして笑いながら去っていく至極満足げな男の背中に、水津命こと瑞弥は最後まで視線を剥がせなかった。


・・・・・・・・・。



「・・・・・・まさか、また、来たりしませんよね・・・・?
 ・・・・まさか、ね・・・・」



しかし水神なのに急に寒気を感じた気がした瑞弥こと瑞弥彦(みずみひこ)は、しばらく神界に篭ることを心に決めた。








――みなさん、お願いですから、あの人間にこれ以上力を与えないでください・・・!