黒い陰の間を縫う様に走る。雨は激しく体を叩き、隙間から這い込んでは体温を奪う。

規則的な息遣いが耳障りだ。





――くだらない失態を犯した。

幾度も使い慣れたこの森で、底無しの沼に足を取られた。
私は自分が思う以上に、この任務に気を奪われているらしい。

「・・・・動くな、ジェード」

もがくジェードに両手をかけ、これ以上進まない様に後ろへ引く。興奮した首
筋を撫で擦り、緩む手綱を取り直した。


きれいなめ・・・だいすきよ。 いとしいあなた
「―――母上」 この枷を、メリディアナと共に葬り去る事は出来るのだろうか。 「――あっぶね、つか寒ッ」 「!!」 素早く背後を振り返り、打ちつける嵐のなか目を細める。しなる影から弱い灯 が、揺れながらこちらに近付いて来るのが判った。 「誰だ」 未だ奴等は何も知らず、おそらくはその最期まで、私達の介入を知らぬまま、 腐った実は墜ちるだろう。全ては帝国の手の内に、水面下で進んでいる。 ならば、村人か。 それでも掛かる剣の柄に、冷えきった体が指先から凍えていく。
どうして、わたしのなをよんでくれないの? どうして?
――果たして、現れたのは子供だった。 予想を僅かに外れたその姿、何故このような嵐の夜に、頼り無い子供がたった 一人で。 意識的に剣の柄を握り直すと、立ち尽くして居た子供はそろそろとした足取り で歩み寄って来た。そして微かにランプを掲げたかと思うと、危うげな様子だ というのに手放してしまう。私は一連の不可解な行動をただ黙って観察してい たが、子供はそんな私をしきりに警戒しつつも、今度はジェードの首を抱え込 んで力み出した。 「・・・・・・・・・」 この子供には、警戒心というものは無いのだろうか。 時折私を気にする素振りで、濡れそぼった外套から口元が覗く。その造作から 見るに十三は超えているのだろうが、こちらが不思議に思う程必死でジェード の首にかじり付いている。――ああ、それでは逆効果だというのに。 どこか困惑した様なジェードを見やり、私はいつの間にか震える子供の風上に 立って、共にジェードを引き上げていた。 去ろうとする奇妙な子供の腕を掴んでしまったのは、無意識の業だった。 閃光に浮かび上がったその顔は、思ったよりも大人びていた。それでも驚きと 怯えとで見開かれた瞳が、やはり幼さを感じさせる。 初めて見る漆黒の瞳は、ただただ美しいと思えた。 あの月が消える稀なる日の、真実の闇の色――。 ――全く無防備で善良なその子供の家は、此処タラスの森の奥深く、私達が使 う抜け道よりもひっそりと静かに佇んでいた。聞けば一人で暮らして居るとい うが、見る限りそれは嘘だろう。もしくは、極最近まで共に暮していたのか。 椅子に掛かるくすんだ膝掛け、きっと子供は好かない分厚い蔵書。そこかしこ に気配は色濃く残っているが、嵐に軋む小さな家、薪の弾ける微かな音、家族 を尋ねた私の問いに、子供の顔も家の空気も静かに沈んでいる。 この子供は、独りだ。 不躾な私の問いに気を悪くしたのか、むっとした顔で見据えて来た子供の瞳に、 思いもかけず本心から言葉が零れた。驚いた様子で見返され、その様に笑みが 浮かぶ。厭わしい姿に触れられても、ただその素直さに心がほぐれた。 ――冬の冷たい嵐の中、隔離されたこの場所を、他意の無い眼差しを、私は確 かに心地好く思った。嵐が過ぎ去った翌朝、重く湿った外界へと踏み出す事を、 一瞬躊躇するくらいには。 「名は?」 「・・・・セタ・ユーシン・・・」 最後まで私を気遣ったその姿を、長く忘れはしないだろう。 久しく知らなかった穏やかさを、どこまでも真っ直ぐな、黒い瞳を。
ひとよのゆめ 霧は私を切り離し、そしてまたひとり、暗い道を往く。