星の小舟




「すごいすごいっ、どうしてあの人は火を食べれるんだっ?」


頬を紅潮させて飛び跳ねる愛らしい少年の姿に、道行く人々は皆つられたよう
に頬を緩ませていく。背中に届くほどの金髪を二つにまとめたその姿は、ある
いは美しい少女だと思われていたのかもしれない。

「苦しくは無い? 痛くは無い? もしかして美味しいの?」

興奮した少年が炎の曲芸を見せていた男に話しかけると、曲芸師の男は嬉しそ
うに笑って大仰なお辞儀をした。

そしてもう一度大きく口から炎を吐き出したのを見て、少年はますます大きな
歓声を上げて曲芸師に盛大な拍手を送る。

「・・・レーテ、あんまり興奮すると暑さにやられちゃうよ?」

それを後ろから黙って眺めていた茶髪の男は、ゆるやかに跳ねる髪を揺らしな
がらレーテの体を抱き上げた。

慌てて男の首にしがみつくレーテを白い日除けの布で覆って、驚いたように動
きを止めた曲芸師に無言で金貨を投げ渡す。

そのまま祭りの雑踏に足を戻した男に、レーテは唇を尖らせて男の耳を引っ張った。

「どうしてもう離れてしまうんだ? もっと見ていたいのに、」

「レーテはこんなに暑い夏を体験するのは初めてでしょ。自覚してないみたい
 だけど、頬っぺたが真っ赤だよ?」

白い布を被ったレーテの頬に自分の頬をつけた男は、黙り込んだレーテの体を
揺すって前方のカフェテラスを示した。

「ほら、あそこでお祭りの日だけの氷菓子が食べられるから。ちょっと休んで
 いこう?」

その言葉につられたように店を覗けば、人並みを眺めながら楽しそうに硝子の
器をつついている客の姿が見える。

レーテは本でしか見たことの無かった曲芸にも心惹かれたが、男の気遣いと初
めて聞く「氷菓子」という言葉に、水晶で作られた涼しげな髪飾りを揺らして
小さく頷いた。


男はシャラシャラと鳴るその音に、口元を綻ばせてテラスへと入っていった。




*




「ねえ、本当に、星の恋人はいたのかな?」

口の中でしゅわりと溶ける氷菓子を楽しみながら、レーテは向かいに座って頬
杖をつく男に尋ねた。

「そうだねえ、きっと居たんだろうねえ、」

美味しそうに頬張るレーテをこれでもかと緩んだ顔で眺めていた男は、垂れた
緑の目を更に垂らしてレーテの口の端についたクリームをぬぐう。

「・・・・真面目に考えているの?」

「もちろん。本当に星の恋人は居たに違いないよ」

「どうして?」

「そりゃ、みんながそう信じてるからさ」

「・・・・・・・?」

少し納得が行かないように眉を寄せたレーテだったが、氷菓子を乗せたスプー
ンを差し出されてつい口に入れてしまう。

にこにこしてスプーンを器に戻した男を見て、レーテはぽつりと呟いた。

「・・・・かわいそうな人たちだよね」

「どこが?」

不思議そうに首を傾げる男をレーテは目を見開いて凝視した。

「かわいそうに決まってるじゃないか! だって、無理やり引き離されて、
 一年に一度しか会えないなんて・・・・」

くしゃりとレーテが顔を歪めたので、男は慌てたように腰を浮かせる。

「いや、それは自業自得ってゆーヤツで、レーテが悲しむことなんて何も無いよ!」

「・・・自業自得?」

「そう!!」

上目遣いに呟くレーテに畳み掛けて、飾りに添えられていた果物をその口の中
に放り込む。驚いたように口をもごもごさせるレーテの頭を撫でて、男は黄昏
に染まった薄紫の空を指差した。


「――むか〜しむかし、天には夜の布を織る美しい星の娘がおりました。彼女
 は毎日毎日美しい夜を紡いでは、ひとびとに安らかな眠りを与えていました。

 あるとき、彼女は一人の星の青年に恋をしました。彼は毎日毎日綺麗な硝子
 をまいては、ひとびとに美しい夢を与えるのが仕事でした。

 星の青年も、美しい星の娘を一目見て恋に落ち、彼らは仲睦まじい恋人同士
 になりました。

 しかし彼らはお互いのことに夢中になって、自分の仕事をすっかり忘れて
 しまいました。安らかな夜をなくし、美しい夢を見られなくなった人間たち
 は、天の神さまに助けをこいました。

 天の神さまはお怒りになって、二人を遠く離れ離れにすることにしました。
 二人の間は、とてもとても広い星の川に隔てられてしまったのです。

 それでもお優しい天の神さまは、きちんと勤めを全うするなら、一年に一度
 だけ、星の川を渡ることを二人に許したのでした。

 ――こうして、星の恋人たちは、この夏の七つの星の日に、星の川を月の小
 舟で渡って、束の間の逢瀬を楽しむことになったのです」


おしまい、と言って男がレーテに微笑みかけると、周りにいたテラスの客たち
が小さな拍手を送った。男はほんの少し驚いたように目を瞠ったが、すぐにに
こやかな笑顔を浮かべて礼を返す。

レーテはぼんやりとその光景を眺めていたが、持っていた硝子の器から冷たい
雫が手に落ちたのを感じて、ゆっくりとスプーンを動かしながら呟いた。

「・・・・でも、やはり、私はかわいそうだと思うよ」

金色の瞳が伏せられて、髪飾りがシャラリと音を立てる。

「それだけでは、寂しいよ」

かちかちと鳴らしていたスプーンを止めると、レーテは夕日に照らされた男の
顔を眺めた。あの日、炎に照り映えていた空のように、男の顔はオレンジ色に
染まっていた。

「・・・・そうだね」

穏やかに微笑んだ男の髪が、ふわりと風に揺れる。

「――でも、俺達にはまったく当てはまらないお話だから、そんなに哀しい顔
 しないでよ。ね?」

きょとんとしたレーテが男を見返すと、男は白い歯を見せてニッと笑った。

「俺は元から天に弓引く大罪人だもの、そんな罰に大人しく従ったりしないさ」

レーテの白い手を掬い取って、その甲にそっと唇を落とす。


「――俺を捕えるのはレーテだけ。俺が服従するのもレーテだけ、だ」


ちゅ、と音を立てて離された唇に、一拍遅れてレーテの頬が真っ赤に染まる。

その弓なりに笑んだ緑の瞳を凝視していると、一部始終を眺めていた露店の主が
甲高く口笛を吹き、隣に腰掛けていた老夫婦からも「果報者だね、お嬢さん」な
どと声をかけられてしまう。

ますます真っ赤になって俯いてしまったレーテを見て、男は軽やかな笑い声を
あげ、周囲の人々も小さく笑った。





*





ぽちゃん、と落とされた緑の小舟が、ランプの明かりにキラキラ輝く川面をす
べるように泳いでいく。


星の祭りの締めくくり、人々は街の中央を流れる大きな川に集まって、むかし
人々が天の神様に助けを願ったように、それぞれの願いを乗せた小舟をそっと
流していた。

岸辺には、どこまでも長く飾られたランプの灯が地上の星となって瞬いている。

自分の流した小舟を見送っていたレーテは、万が一にも川に落ちないように、
と自分を後ろから抱きかかえる心配性な男を振り返った。


「本当に良いの? 流さなくても」

「うん」

「本当に?」

「うん」


無料で配られていた小舟にレーテが願い事を書いていると、ふと男が何も手に
持っていないことに気が付いた。

貰い損ねたのかと慌てて小舟を探しても、「ああ、俺は流さないから良いんだよ」
と言ってニコリと微笑む。

その理由を尋ねても、男は何も言うことは無かった。

「私の願いだけ叶ってしまっても、私は嬉しくないのに」

困った顔で腹に組まれた男の手を握り締めると、男はくすぐったそうに笑って
レーテの頭に顎を乗せた。

そのままレーテの髪に顔を埋めて、小さく囁く。

「・・・・俺はもう、いいんだ」

それを聞いて、黙って男の腕の中に収まっていたレーテはひょいとしゃがみ
込むと、足元の小石を拾って流れていく小舟に放り投げた。

「ぅおっ、ちょっ、どうしたのレーテ」

「やはり私もいらない」

「え?」

「私にも必要ないんだ。あの小舟は」

「・・・・レーテ?」

黙々と投擲を続けるレーテの手を押さえて、男が困ったように覗き込む。

いくつかの石が投げ込まれた川面は大きな波紋を描いていたが、すぐに緩やか
な流れへと飲み込まれていった。

レーテの流した緑の小舟も、ゆっくりと夜の彼方に消えていった。

「どうして? あんなに楽しみにしてたのに」

レーテの頬に乱れかかった金糸を指に絡め、男は不思議そうに小舟の行く先を眺める。

その夜風に揺らめく柔らかな髪を見上げて、レーテは月が満ちるように笑った。


「たぶん、あなたと同じだよ」









それから、小首を傾げたレーテが「それに、よく考えたら、私の願いはあなたが
叶えてくれる気がするし」と呟くのを聞いたのかどうか、俯いていた男は勢いよく
レーテを抱え上げると、足早に川辺の道を歩き出した。


「な、なに、」

「レーテ、どうして街中にランプを飾ると思う?」

「は?」

「それはね、二人が仕事をしなくても済む様に、みんなで眠らないためなのさ」

「そ、そうなのか?」

「そうなの。だから今夜は頑張って起きてようね」

「うん」

「昨日は早く寝たから一晩中でも大丈夫だよね」

「・・・うん?」

「レーテがバテちゃわないように、ちゃんと優しくするからね」

「――な?!!」



声も無く口をパクつかせるレーテに対し、満面の笑みを湛えたまま川岸を
闊歩する男。



そんな二人の遥か頭上で、二つの星がキラリと輝いた。









レーテ15歳・はじめての夏。(何だかエロビのタイトルみた(黙)