遠い日




「爺さん、朝飯出来たよ」


高くも無く低くも無い、聞き慣れた声に目が覚めた。

ぼやける視界を巡らせれば、ベッドの横にしゃがみ込む、幼げな青年が見える。

「具合はどう? 起きられる?」

私を覗き込んでくるその黒い瞳には、純粋な心配の色が浮かんでいた。私が寝
込む様になってからは、彼はいつもこんな瞳で私を見ている。

「・・・ああ、もう随分と良くなったようだよ」

その稚いこどもの様な姿に、私は少し苦笑を浮かべて彼のやわらかい黒髪を撫
でた。

「で、でもまだ万全じゃないんだろ?こっちに朝飯持って来るから、まだ休ん
 でなよ」

聞けば、彼は十九を迎えた立派な成人だと言う。撫でられたことが流石に恥ず
かしかったのか、頬をほんのり赤く染めて部屋を出て行った。



その微笑ましい姿を見送って、私はふと、彼を見つけた日のことを思い出した。



それは今から半年程前、小雨の上がった白い朝のことだった。
いつもの様にマーノを連れて散歩に出た私は、突如走り出したマーノを追い、
普段訪れることの無い沼地へと足を踏み入れた。

「こら、マーノ、どこへ行く。止まりなさい、」

この年になると、歩きにくい泥土に、どうにも足元が覚束ない。私はマーノを
見失わぬよう目で追いながら、慎重に歩を進めた。

しかし、普段とても大人しく従順なマーノが、こんな風に私の声を無視するな
ど初めてのことだ。

止まることはせずとも、時折心配そうに私を振り返るマーノに、私の頭は疑問
で溢れていた。

「マーノ、どうし―――」

しばらく進んで、やっとマーノの足が止まった。そこは、奥まった草地に埋も
れるようにして存在する、澄んだ小さな池だった。



そこで、私は彼と出会った。



小さな池の中心で、仰向けに横たわっていたのは、紙の様に白い顔をした一人
の少年だった。

見たところ十六ほどに思えたが、水に揺蕩う真黒い髪が、その白い頬や額に張
り付き、濃い藍色の衣服が、水に溶け込むようにして彼の体を覆っている。



――ふ、と、その昔、人を惑わしたと言う魔性の姿が、私の頭に浮かんだ。



マーノが池に走り込む音に、私の意識は現実に戻った。
この世に魔物などと言うものがいる筈も無く、あの少年は保護すべき人の子だ。

私も慌てて彼に走り寄ると、マーノと力を合わせて彼を岸へ引き上げた。




翌日目を覚ました彼の瞳は、髪と同様に、これまで見たことの無い稀な漆黒だ
った。まるで全てを飲み込む様な暗い色に、私は一瞬言葉に詰まったが、虚ろ
に漂うその眼差しに、そっと声をかけた。

「目が覚めたかね」

数瞬、彼は動かなかったが、緩慢な動きで私に目を向けて、凝然と瞳を固まら
せた。

「体の具合は? 喋ることは出来るかの?」

なるべく刺激を与えない様にと心がけたのだが、少年はみるみる顔を青褪めさ
せたかと思うと、微かに唇を戦慄かせて、糸が切れた様に首を落とした。


それから三日間、彼は熱に浮かされて、うわ言に何事か呟いた。あまりと言え
ばあまりに悲痛なその声に、マーノはずっと少年から離れようとはしなかった。


その後、回復した彼から聞いた話は、今でも不可解なものでしか無い。
半分も理解は出来なかったが、少年、いや、今年で十九になるという青年・ユ
ーシンには決して嘘をついている様子は無かったし、意識もはっきりとしてい
て、言葉の端々には高い教養が伺えた。しかしその反面、常識というものを、
ことごとく知らないとも言う。


仮に彼が高い家柄に生まれたとして、こうも矛盾した知識を得るものだろうか。

仮に貧しい家柄に生まれたとして、こうも無知で居られるだろうか。


どんなものにもそぐわないユーシンはまるで、人界に迷い込んだ異界の住人の様だ。



この世界で、最も人々に尊ばれ、畏れられるだろう満ちた月を、驚愕の表情を
浮かべ呆然と見詰めるユーシン。


その、青白い光に包まれた姿を眺めながら、それは天界と魔界のどちらなのだ
ろうかと、私は頭の片隅で思った。





「・・・・爺さん? また寝ちゃった?」


ゆっくり瞼を上げると、食盆を持ったユーシンが不安げに首を傾げていた。私
が体を起こそうとすると、慌てて食盆を机に置き、優しく背中に手を回してくる。

「無理すんなってば、」

「いいや、本当にもう良いんだよ。それよりも、空腹が辛い位での」

小さく笑みを浮かべると、ユーシンの顔もほっと緩んだ。

「・・・ならいいんだけどさ。今日は、じゃがいもでポタージュっぽくしてみたんだ。
 食べやすいし消化も良いよ。味は保障しないけど」

悪戯っぽく笑う姿からは、到底彼の正しい年齢を推し量ることは出来ない。

どこにでも居る、慈しむべきこども。

「そんなことは無いだろうに。ユーシンの料理は、どれも皆美味しい」

「えっ? ・・・や、うん。そりゃどうも・・・」

ユーシンはこうして褒めるたび、照れ隠しに黙り込む。驕る、ということが全く無い。
如何にこれまで大切に、真っ直ぐ育てられて来たのかと言うことが良く判る。
彼の家族は、行方の知れない彼に、どれだけ心を痛めていることだろうか。

「――お前も、こちらでお食べ」

窓の前に座っていたマーノを呼んで、彼に少しだけ似た黒色の毛を優しく撫ぜ
た。この森の中に住まいを定めて四年、それまでの放浪の間も、良く私に尽く
してくれた。

「じゃあ、マーノの分も持ってくる」

彼は、揃って食事をするということがとても好きな様で、いそいそと居間まで
戻っていった。その瞬間、胸から咳が込み上げて来て、咄嗟に毛布で口を押さ
える。数度咳き込む私を見て、マーノが悲しげに喉を鳴らした。

ああ、マーノ。お前には、私の命の終わりが判っているのだな。

たとえどこまで堕ちようと、私も薬師。私に残された時間は、後多く見積もっ
ても半年程度だろう。死ぬことが恐ろしく無いとは言わない、だが、よくぞこ
こまで持ったものだと思う。


二年以上に渡る逃亡生活に疲れ、この森に落ち着いてから半年が経った頃。
大公陛下が身罷られたとの報に、私は世界が滅びるより衝撃を受けた。


七年前のあの日、私は気付かなかった狂気を知った。そして、その恐ろしくも
冷たい手から、私は逃げ出したのだ。
その狂気を引き出してしまった、私の愚かさからも。
唯一つの、罪の証を持って。

全ては、炎の中に、永遠に葬られた筈だったのに。


私は苦悩した。いつの間にあれが持ち出されていたのか、私は何と言う罪を犯
してしまったのか。

陛下だけでは無い、私は殿下も、深い闇の底に叩き落してしまったのだ。
私があんな物を作らなければ、きっと今でも、殿下はあの狂気を心の奥に沈ま
せたままだったろう。その存在に、気付くことさえ無く。

あの奇跡の様に美しく、邪悪な花さえ無かったら。

あれこそが、人を惑わす魔性だったのだ。


何度、自分の命を捨て去ろうと思ったか知れない。だがその度に、悲しげに鳴
くマーノを見ては心が揺れ、神に懺悔すれば、自殺という新たな罪を重ねるこ
とを躊躇した。

私はなんと、欲深く、臆病な人間なのだろうか。これだけの罪を犯してなお、
我が身が可愛く、告解する勇気も無い。

ただ、浅ましく、逃げ続ける。


そうして、私は彼に出会ったのだ。


この身には過ぎた程、光に満ちて、幸福な半年だった。



「――これでよし。
 マーノ、今日は爺さんが元気になったから、なんと燻製肉付きだぞ?」

寝室に戻ってきた彼がマーノの前に食事を並べ、朗らかに笑顔を浮かべた。
見上げるマーノの頭を撫でで、何事か囁いてはマーノの前足を持ち上げている。

私はそれを眩しげに眺めて、微かに痛む胸を押さえた。
不安げに私を見るその瞳には、孤独への恐怖が潜んでいると判っているのに。


私が居なくなった後、一日でも早く気付いてくれれば良い。


お前は決して、孤独では無いのだと。







彼は優しい子だから、きっと私の死を嘆くだろう。
私は罪深い。人の運命を狂わせておきながら、彼が私の為に涙を流すだろうこ
とを、密やかに歓喜している。


だが、もしも、彼が私の真実を知ったなら、私の為に泣いたことを、後悔する
のだろうか。


「さあ爺さん、飯にしよう」


ユーシンが、明るい朝日の中で、鮮やかに笑った。









私は煉獄の炎にも浄化されぬ罪を抱え、地獄の底へと堕ちてゆくだろう。

それでもユーシン、私はずっと、お前の幸せを祈っている。