わたしの凍えた髪より冷たく



『ここは、昔とちっとも変わりませんねえ』


春の雨にけぶる庭を眺めながら、彼が歌うように呟いた。口元には、
常と変わらぬ微笑が浮かんでいる。

身分ある者として多忙な毎日を送る彼が、こんな昼間に訪ねてくる
ことは稀だ。特に私が近衛騎士となってからは、二人きりで会うこ
とは益々少なくなっていった。

――彼は、私の主君たる国王陛下の弟君で。

私は、彼を守るべき臣下。

彼の清かに流れる髪を、この手で梳いたのはいつの頃だったろうか。


『ねえ、レヴィン。あの花、覚えていますか?』

彼の視線の先にあるのは、霧雨の中重たげにうなだれる一輪の花。
他の花はとっくに散ってしまったというのに、その花だけは未だ命
を繋げている。

『・・・いや、判らないな。あれがどうかしたのか?』

最近の私には、花に目をやれるような余裕など無かった。今彼が聞
かなければ、ここに咲いていたことにすら気付かないままだったろ
う。

私の返答を聞いた彼は、口元の微笑を微かに深めて目を細めた。そ
の表情に、私の心臓が低く脈打つ。

『――あれは、あなたが昔、初めてわたしにくれた花ですよ』

おかしそうに告げる彼の声に、私の中で遠く沈み込んでいた記憶が
呼び起こされた。


――あれは、まだ私達の間に何のしがらみも無かった頃。


彼と駆け比べをしていた私が小さな水溜りに足をとられ、盛大な水
しぶきを上げて地面に倒れ込んだ時。

痛みと羞恥に耐えかねた私は、追いついた彼の差し伸べる手を、力
強く叩き落してしまった。

だが、幼心にとんでもないことを仕出かしてしまったと混乱する私
に、赤くなった手を押さえていた彼は、にこりと笑って首をかしげ
た。

『――すごいね、なかないね。いたくない?』

当時の彼は、まさに可愛らしい女の子といった風情で、その時の笑
顔に、私は心奪われてしまったのだ。

そして良くも悪くも直情だった私は、そう思った瞬間、騎士の礼儀
に則り、傍に生えていた花を夢中で彼に差し出していた。

『・・・た、たたいてごめん・・・!』

きょとんとした顔で私を見返した彼は、不思議そうにその花を見つ
めて、嬉しそうに笑った。

『ありがとう』

そして、大事そうに私の手から花を受け取ってくれたのだ。

正しく、あれが私の初恋だった。


・・・その後、濡れた私が浴室へと追いたてられたとき、彼も一緒に入
ることになって、私の恋は数刻で終わりを迎えることになったのだが。


その花が。


『あの・・・・』

『ええ。あなた、あの時まで、わたしを女の子と勘違いしていまし
 たね』

くすくすと笑われて、私の顔がジワリと熱くなる。そのまま黙り込
んでいると、彼はますますおかしいといった風に声をあげて笑った。

『・・・・・・シャート・・・・・・』

耐え切れなくなった私が呼びかけた途端、彼の笑いがピタリと止ま
る。

『・・・シャート?』

私に背を向けて庭を眺め続ける彼に、何故か無性に不安を掻き立て
られた。彼はここに来てから、一度も私を見ていない。


私の手が無意識にその背中へと伸ばされたが、スッと庭に降りてい
った彼には届かなかった。


沈黙に雨のしとしと降る音が響く中、白い花の前で彼がくるりと振
り返った。未だ、口元にはあるかなしかの微笑を湛えている。

『あなたがこの花を選んだのは、必然というものだったのでしょう
 か』

彼の仄赤い唇から、薄く白い吐息が吐き出されていく。

その中で、先王の血を引いた紅の瞳が、私の瞳をやわらかく刺した。

『この白い花の意味は、儚い幸せと・・・・・・永遠の、哀しみ』

薄氷に似た長い髪をなびかせて、彼は瞳を閉じた。


前国王陛下、つまり彼の父君が身罷られてから、まだ幾年も経って
はいない。

そして彼の母君は、今も病の床に臥している。

その花は真実、彼の現在を表しているようで、私は内心過去の自分
に舌打ちした。


『――ああ、レヴィン? このようなことを言っておいてなんですが、
 わたしは少しも気にしてなどいないのですよ? むしろ、良い花を
 選んでくれたと思っているのです』

少し眉を寄せた私に、彼はほんの少し声を和らげた。その表情が一
瞬、昔のあの頃と被った気がして、私は視線を花に移した。

――何故なのだろう。いつから彼は、笑わなくなってしまったのか。

あの、白い花を見た彼の、私の心を奪った笑みは。


・・・・ふ、と、私の嗅覚が、嗅ぎなれた匂いを感じた。


『シャート!?』

剣を扱う私には似合いの香り、聖なる血を引く彼には不釣合いな匂
い。彼の白い左手から、一筋の血が滴っていた。右手には、王家の
短剣が。

慌てて歩み寄ろうとする私に構わず、彼はその手をゆっくりと上げ、
白い花を鮮血に染めた。

じわりじわりと、薄い白が、重い赤に侵食されていく。

その様を見つめていた彼の、隠微な微笑に、私の足は凍りついて動
かなかった。

『――この花の、赤い色の意味は、憎悪――』

霧雨を重く含んでいた白い花は、まだらに染まって、終に崩れ落ち
る。

『どちらにしろ、私には相応しい』


まるで、テラスと庭に、薄い膜が張られているかのように。

静かな雨に包まれて、彼の姿も、声も、どこか遠い景色のようだった。



遠く、遠く、塔の鐘が鳴る。



『――ああ、もう時間のようですね。それではレヴィン・・・さようなら』


最後に見せた柔らかな顔、それは、確かにあの頃の彼で。

その時彼を引き止めていたならば、何かが変わっていたのだろうか。

私の美しい、幼馴染。


その夜、彼の母君は亡くなり、彼も王国から姿を消した。




*




「レヴィン、何か、シャートから連絡は」

「――ございません」

「・・・そうか・・・。お前にも、無いか・・・・」

国王陛下が、力無く玉座に腰掛ける。

大聖堂の前に捨てられていた私は、黒髪黒目という外見から“レヴィン〈大鴉〉”
という名と、神の子という意味の“ミロン”という姓を与えられた。そして、聖
女の御子であったシャートと、大聖堂で兄弟のように育ったというのは周知の
事実だ。

真実、血の繋がった国王陛下、リューナーク殿下よりも、私は近しく生きてき
た。

私が13、シャートが11になった時、彼が王城に召されるまでは。



「何か、心当たりも無いのか」

「――ございません」

常に王者としての風格と気品を失わぬ国王陛下が、鋭い舌打ちを零す。

その瞳には深い焦燥の影と、微かな諦念の色が浮かんでいた。


――陛下は、実弟であるリューナーク殿下と同じように、異母弟であ
るシャートも愛している。


そのシャートが自ら姿を消したと言う事実に、怒りとも哀しみも
つかぬ感情で苛まれているのだろう。



「・・・・・・もう、良い。下がれ」

手で目元を覆った陛下に頭を垂れ、私は静かに踵を返した。


回廊を渡る私の姿が、窓ガラスに映り込む。


白でもなく赤でもない、私の黒髪、黒い瞳、黒い鎧。


シャート。


お前の儚い幸せも、永遠の哀しみも、―――憎悪も。

私の黒は、呑み込むことは出来なかったのか。




「レヴィン様、来月の視察の編成についてお話が・・・・」

「ああ、直ぐ行く」


背後に浮かぶ月を一瞥し、私は黒い外衣を翻した。


だがシャート、私は必ず、お前を見つけ出してみせよう。

その時は。




細く滲んでいた白い月が、雲に隠れて闇に呑まれた。