滴る黒



魔狼をおつかいに送り出した王子様がひとり、庭のベンチに腰掛けながら、
夕食のメニューについて頭を悩ませていたとき。

あたたかい日差しの中、ぼんやりと視線を庭にやっていた王子様の目に、
なにやら奇妙なモノがとびこんできました。

明るく木漏れ日がさしこむ庭の中心、
まるでぽっかりと穴が開いたかのように、真っ黒な円がひろがっていたのです。

王子様がしばらくその様子を眺めていても、まったく変化する気配はありません。
いい加減退屈してきた王子様は、すたすたとソレに近づいていきました。

近くで見てみると、ますますその異様さが目を引きます。
穴が開いているのでもなく、黒い水溜りでもありません。
王子様がそっと表面をのぞきこんでみても、王子様の顔が映ることは
ありませんでした。

「流石魔の森ですねえ。
 このように奇々怪々なモノが平然とのさばっているなんて」

ソレを興味深げに眺めまわした王子様はそう言うと、
持っていたハンカチをふわりと被せてみました。

すると、はじめは何の反応も見せなかった黒い円でしたが、
見守る王子様の目の前で、ゆっくりとその形を変え始めたのです。
ソレは徐々に上へ上へと伸びていき、ついには王子様の背丈を
軽く越してしまいました。


「――ふむ。これはちょっと、困りました、ね」


ハンカチで覆うことも出来なくなり、見なかったことにも出来なくなった王子様は、
夕食のメニューではなく、それの処遇について頭を悩ませることになりました。



しばらくして、うつむき加減に考え込む王子様の両肩に、何かが触れる気配がしました。
驚いて王子様が顔をあげると、いつの間にか黒い人の腕のようなものが掛けられています。
それは目の前の黒いモノから伸びていました。
気づけばまるで、黒い人間のような輪郭を形作っていたのです。
目を見張る王子様を前に、そのまま黒いヒトガタは王子様にすりよってくると、
ピタリとその動きをとめてしまいました。


――それから魔狼が帰ってくるまでの間、頭と思われる部分に王子様のハンカチをのせたまま、
  無言で王子様とその黒いヒトガタは向き合っていたのでした。



*



「・・・・・・・・・えぇと、なにやってんのお前ら?」

帰ってきた魔狼は、その異様な光景を前に、訝しげな顔でたずねました。

「見て判りませんか。正体不明な生き物と思しき物体にまとわりつかれて困っています。
 なんとかなさい」

「それが人に助けを請う態度かお前。大体スリュムに向かってなんつーヒデェ言い草だよ」

「――この人外魔境、スリュムというのですか?というか貴方知り合いですか」

まじまじと王子様が見つめてみても、スリュムと言うらしい黒いヒトガタはただ微かに
体をゆらめかすだけです。

「そんなモンかな?コイツしゃべりゃしねーから何考えてっか謎だけど。
 それなりに意思の疎通は図れるし、悪いヤツでもない」

そう言った魔狼が王子様に近づくと、ふわりと王子様から体を離したスリュムは
何かを体の中から落としました。

「ぉお?!〈雪と湖の国〉特産の銘酒じゃねーか!!え、なにコレ俺にくれんの!?」

すかさず拾い上げた魔狼が歓声をあげますが、スリュムに気にした様子はありません。
大喜びで礼を告げる魔狼を呆れた顔で見守っていた王子様は、あらためてスリュムに
体を向けました。

「今日はわざわざアレを届けに来て下さったんですね。失礼をいたしました」

申し訳なさそうに王子様が微笑むと、スリュムはただ体をゆらすだけで何の反応も見せません。
しかし、王子様がスリュムの頭にのったままだったハンカチを取ろうと手を伸ばすと、
すかさず体を後退させ王子様の手から逃れました。
それから何度繰り返しても、スリュムはハンカチを取らせようとはしません。

「や、そいつソレ返したくねぇんじゃねーの?」

その様子を眺めていた魔狼がそう言うと、スリュムは動きを止めました。
それを見た王子様は、まさかとは思いつつも、お酒をくれたお礼として
そのハンカチをあげることにしました。

「何もそんなハンカチでなくても。もっと何か他のものでも構わないのですよ」

王子様は納得しかねるように何度も問いかけますが、スリュムはただ体をゆらすだけです。
しまいにはハンカチをするりと体の中に収めてしまいました。
そしてグラリと輪郭が崩れたかと思うとゆっくりと沈んでいき、また元の黒い円に戻ってしまうと、
そのまますべるように庭の中から出て行ったのでした。

「いやー、マジでいいモン貰ったなー。さっすがスリュム、判ってる!」

満足そうにスリュムを見送る魔狼でしたが、王子様にとっては初めて見る生き物です。
疑問は尽きることがありません。

「結局、彼、いえ彼女?は何なのです?魔物なのですか」

「さあ?気づいたら居たからなぁ、誰もアイツが何なのかなんて知んねぇよ。
  ただ見た感じ、この森の魔力とココに集まる魔物の魔力が凝ったモン
 なんじゃねぇかとは思うけどよ。・・・・・厳密に言や、生き物でもねーのかもな」

興味なさげな魔狼とは反対に、王子様は面白そうにスリュムの去った方向を見つめました。

「それでは“スリュム”とは貴方が便宜上つけた名なのですか?〈影〉とはまた貴方らしく安直な」

「ちっげぇよ!!勝手に人のネーミングセンス馬鹿にすんな!
 いつの間にかそー呼ばれるようになってたんだっつの!!!」

「まぁそれはいいとして、この魔の森にもあんな方がいらっしゃるなんて。
 ぜひまたお会いしたいものです」

「・・・・・・・な、俺とスリュムに対するそのあからさまな態度の違いは何だ・・・・?」




スリュムから贈られた遠い異国のお酒は、その日の夕食に一役買ったそうです。