昔、花と森の王国のとある小さな村で、一人の女の子が生まれました。その澄んだ瞳は
全てを集めた黒の瞳で、その美しい髪の色は神様に愛された空の色でした。
 生まれながらの聖女として王国の大聖堂に引き取られた女の子は、日々人々の為に神に
祈り、神に仕え、心優しく美しい少女へと成長しました。

 ある時、そんな彼女に一人の男が求婚をしました。大地の髪に燃える様な瞳をしたその
男は、花と森の王国の王でした。彼には既に遠い国から来た正妃がいましたが、彼は二人
目の妃として聖女を望みました。大聖堂の神官達はそれを素晴らしい事だと思い、神と王
国の絆は更に強く結ばれるだろうと言いました。王国の人々もそれは良いことだと言いま
した。誰も、反対する者はいませんでした。

こうして、聖女は王の妻になったのでした。

 王様の元に嫁いだ聖女は、間もなく一人の男の子を生み落としました。王国の2番目の
王子として生を受けたその男の子は、聖女に良く似た空色の髪を持っていました。王国の
人々はとても喜び、神と王国とが結ばれた証だと言いました。

聖女は男の子に<幸福>の名を授け、大切に大切に慈しみました。


「・・・ははうえ」


 ・・・しかし、それからしばらくして、聖女の体は少しづつ衰弱していきました。美しかった
空色の髪は薄い雲がかかったように、澄んだ黒の瞳は閉じられていることが多くなりました。

そして、それと入れ代わるように、2番目の王子の聖なる力は増していったのでした。


『――・・・やはり、聖女は人と交わるべきでは無かったのでは』
『何、殿下に御力が現れた事が何よりの証拠よ。神は我々を祝福しておられる』
『一代限りの聖女が次代へと聖力を引き継ぐ。これを奇跡と云わず何と云う?』
『民も尚の事神を信じ、王家を信じ、王国は栄えるだろう』
『・・・しかし、もはや聖女は・・・』
『殿下がおられるではないか。聖女がいなくなろうと神の御力の顕現は消えぬ』
『そう、殿下を祀り上げればよい。神の奇跡は一度きりでは無いのだから・・・』

『これもまた、神の御意思よ』


 それをある人は神の力の譲渡だと言い、またある人は神の怒りに触れたからだと言い、
またある人は聖女の務めを全うしたからだと言いました。誰も、その理由を知るものはい
ませんでした。誰も、聖女を救うことは出来ませんでした。

誰も、誰も、誰も。




「母上」



人も寝静まったある春の夜、幸福と名付けられた青年は長く眠り続けている母の部屋
を訪れた。穏やかに時の止まったその部屋には、いつも微かな花の香りが漂っている。

「・・・お久しぶりです、母上」

回りを囲う薄い絹を掻き分けて、寝台に横たわる母を覗き込むと、その顔には優しい夢を
見ている様な柔らかな微笑みが浮かんでいた。それはまるで昔と変わらぬままの可憐な微
笑みだったが、儚い輪郭の線は更に細くなり、そこから垂れ落ちる長い髪はもはや白い寝
台と区別出来ない程だった。青年は穏やかに眠る母の頬にそっと手を伸ばすと、その冷た
さに胸を震わせながら、ただゆっくりと頬にかかる髪を払って見慣れぬ純白の髪を梳き続
けた。



「・・・母上」

しばらくして、明るいレモン色の月が夜の頂上から下り始めた頃、青年はぽつんと物言わ
ぬ母の微笑みに問い掛けた。

「・・・母上」

「・・・母上は」


「母上は、幸せでしたか」


冷たい頬を撫でる手が、微かに震える。


「――本当に、これで――」


もう決して答えの返らない問いに、青年の思いとは裏腹な母の顔に、俯いた青年の濡れた
頬を垂れた髪が覆い隠した。

星が流れる。


「・・・おやすみなさい、母上」





――やがて太陽が光輝く頃、聖女付きの侍女が扉を開けて部屋に入ると、庭に面した大き
な窓が開け放たれていることに気が付いた。冬の名残の冷たい雨に、身を硬くしていたつ
ぼみが朝の日差しを浴びて輝いている。新たに咲き綻んだ薄紅色の花びらが、昨夜散って
しまった花びらと一緒に風に乗って寝台の上へと舞い散っていた。


「・・・・だっ、誰か! 誰か! 早く王に――いえ、シャート様に!!」



雪が溶けて春になり、王国の花々が目覚めた最初の満月の夜、聖女は二度と目覚めない眠
りについた。






ある聖女の話