想いは波のように


朝の柔らかい空気の中、ふたり仲良く朝食を堪能していたところ、魔狼が思い出したかの
ように顔を上げました。


「あー、シャート、お前今日一日家から出るな」

「おや。貴方にもついに魔族としての自覚が」

「元からあるわ! 何が言いてぇんだよコラ!」

「いえ、外に出るなだなんて、私を監禁したいという欲望の表れでは」

「・・・なワケあるかボケ・・・!」

肩を大きく上下させる魔狼を眺めながら、王子様はゆるく首を傾げて微笑みました。

「そうですよね。魔の森自体が巨大な鳥篭のようなものですものね。今更ですよね」

魔狼はワナワナとカップを握る手に力を込めますが、頑丈な魔狼用のカップにはひび一つ
入りません。王子様は手元のきれいに切り分けられた果物に目を落すと、ひとつ摘まんで
魔狼のくちびるに押し付けました。そして魔狼がそれをぱくりと口に含むと、王子様は魔
狼の濡れた口の端をさらりと指でぬぐいました。

「まぁ冗談はさておき、何故外へ出てはいけないのですか?」

「今日は遠出しねぇといけねぇんだよ。だから危ねぇだろ、お前ひとりじゃ」

「もうここに私を襲おうなどという蛮勇な魔物はいないと思うのですが」

「確かにお前には俺の匂いが染みついてっから低脳なヤツでも本能で避けると思うがな。
 人間には判らねぇだろ」

「人間、ですか」

「そうだ」

嫌そうな顔で「またあの魔術師みてーのが来ねえとも限らねぇし、」と呟く魔狼に、王子
様はただ薄い微笑を浮かべるだけで、何も返事はしませんでした。


そして王子様がそっと移した視線の先には、晴れ渡った青い空と、悠々と飛び回る大きな
鷹の影がひとつ。






*





魔狼を見送ってから暫くして、王子様は魔の森の入り口近くへと足を運んでいました。
だんだんと木の密度も低くなって、まるで雨のように細かな光がたくさん森の中へと
差し込んでいます。

その中をひとり黙々と歩んでいた王子様は、突然高く響いた鋭い音に立ち止まると、
空高く舞っていた鷹が木々の向こうに降り立っていくのを見て、その方角へと体の
向きを変えました。

そこには、水溜りのような小さな泉がぽつりぽつりと点在していました。
水面や大地にたくさんの光の筋が差し込み、空気が白く輝いています。


その奥に、大きな鷹を腕に止まらせた男がひとり、王子様をじっと見つめていました。


「・・・・・・・レヴィン」


囁くような王子様の声を掻き消すように、ざぁっと木々の擦れあう音が響きました。


男の乱れた黒髪の間からは、深い漆黒の瞳が揺れることなく王子様を正視しています。
王子様はなびく氷色の髪をそっと押さえて、男の眼差しを静かに受け止めました。


「・・・・・・・何故、」


男は腕から鷹を放すと、ぽつりと呟きました。


「何故、黙って消えた」


その声は、重く森の中に響きました。


「何故だ」


ぐっと握り締められた拳が、微かに震えました。


「・・・・シャート」

「―――――」


王子様はゆっくりとひとつ瞬きをすると、もう一度、男を真正面から見詰めました。

最後に見た日と変わらず、男は隙の無い漆黒の甲冑に身を包んでいます。
男は、“花と森の王国”が誇る、ただひとりの黒騎士でした。

「―――――・・・・」

黒騎士から離れた鷹は、一度上空へ高く舞い上がると、王子様の近くの木へと降り立ちま
した。王子様が見上げて光に目を細めると、黒騎士がヒナの時から世話をしていた鷹は、
馴染んだ王子様の眼差しに首を傾けます。

懐かしいその仕草にふと微笑むと、王子様の体は強い力にさらわれました。

「――私は何を間違った?」

身じろぐ王子様を離すまいとするように、深く王子様の体を抱え込みます。

「・・・・教えてくれ・・・シャート!」

掠れる声と、大きく脈打つ鼓動を感じて、王子様はひっそりと苦く微笑みました。

「いいえ、レヴィン、貴方は何も間違ってなどいません。間違いがあったと言うのなら、
 それはこの私です」

細い腕を伸ばして、黒騎士の背を包むように抱きしめると、子どもの頃のように頬を合わ
せました。

「お前が間違ったというのなら、お前が行くとおうのなら、それでも私は傍に居たのに。
 それとも、気付けなかった私を見損なったのか」

「いいえ、いいえ、違いますレヴィン。貴方はそう言って下さると判っていたから、
 私は何も言わなかった」

「何故」

「貴方は、王国の騎士だから」

「お前は、王子だ」

「ええ、二人目の王子です。穢された聖女の子です」

黒騎士が息を呑んで王子様の瞳を見つめると、王子様は深紅の瞳を歪めて微笑みました。

「・・・それでも、お前は王子だ。私の、大切な・・・」

「ええ。私も、貴方を本当の家族のように思っています」

「なら」

「いいえ。私は戻りません」

「何故!」

「憎んでいるから」

「・・・なに?」

「私は、王国を、憎んでいるから」

濡れたように光る深紅の瞳は、先王から受け継がれた王の子の証です。暖かい色合いのそ
の瞳は、黒騎士の姿を鏡のように映していました。


「神を・・・・・・・私を」


いつか聞いた、憎悪の意味を、黒騎士はやっと知ることが出来ました。


「二度と、戻れません」


うつくしく微笑んだ王子様は、立ちすくむ黒騎士の冷えた頬を、優しく包みました。
唇を引き結んで見下ろす黒騎士に、笑って背伸びをします。

王子様がまだ何も知らなかった頃、いつもそうしていたように、王子様の母上と同じ黒い
瞳に、優しく口づけました。

「・・・・なら、私も王国を去ろう」

頬に添えられた王子様の手を握り、苦しげに瞼を閉じて黒騎士は呟きました。
しかし王子様は、やわらかい笑みを浮かべるだけで、決して頷こうとはしませんでした。

「ですから、それは駄目だと言ったでしょう?」

「・・・なぜ」

「貴方まで我侭を言わないで下さいよ。それは私の専売特許ですよ」

「お前はそれで平気なのか」

「貴方こそ、そう簡単に国を捨てれる程薄情な人間じゃないくせに」

「だからといって、お前をみすみす失えると思うのか」

顔を歪める黒騎士に、王子様は困ったように首を傾げました。

「・・・ほら、そんな顔をして。無理をして傍に居て頂いても、少しも嬉しくありません」

「・・・・・・・・・・・・」

黒騎士がますます唇を噛み締めると、王子様は一呼吸置いて口を開きました。


「と、言いますか、貴方には共に来て頂くよりも内部から捜索を撹乱して頂けたほうが私と
 しましてはとても嬉しいと言いますか。いやあ、最初に見つかったのが貴方で良かった。
 よもや既に王にまで知られてはいませんよね? 密告なんて以ての外です」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


黒騎士は、ただ黙って王子様の言葉を聞きました。王子様の本心は、きっとそれだけでは無い
のだろうと思いました。黒騎士が幼い頃から、騎士になるためにどれほどの努力をしたのか、
ずっと傍にいた王子様は知っているのです。教会の養い子である黒騎士が騎士になることを
許されたのは、血の滲むような訓練を経て、王国の大会で優勝できたからでした。



18歳になったあの日、歓声と舞い散る花びらの中、泣きそうな顔で笑った王子様の姿を、
彼に向かい剣を掲げた瞬間を、黒騎士は思い出しました。




「・・・・シャート」


王子様から一歩離れた黒騎士は、その流れる髪を手にとって、そっと口づけました。


「忘れないでくれ。私の剣は、お前に捧げたのだということを」


黒騎士の手の中から、王子様の髪がさらさらと零れ落ちていきました。


「――――――」



王子様はそっと瞳を伏せて、静かに微笑みました。







*







「お帰りなさい、アルフ」

「おぅ。土産持ってきたぜ」

「わあ、ありがとうございます。綺麗な服ですね。一体どこに行って来たんですか?」

「・・・まあ、そこらへん」

「私に言えないような所・・・・そうですか、娼館ですか」

「なっ、ワケあるかぼけ!!」

「判ってますよそんなこと。なにせこの私と暮らしているのですから」

「だからなっ―――・・・ん?」


渡された薄紫色の服を眺めている王子様を、不意に魔狼は表情を消して見つめました。
それに気付いた王子様が顔を向けても、ニコリともせず凝視しています。

「・・・何ですか、まさか本当に飢えてるんですか? 私ではなく他所のお肉を食べて下さいね」

「・・・・・お前、誰か外のヤツに会ったな」

「・・・・・はい?」

「人間に会っただろ。誰だ。いつ外に出た? 魔術師じゃないな」

ぐいっと王子様の二の腕を掴んで、首筋に顔を近づけました。

「・・・・匂いが濃い・・・・」

呟いて、王子様の瞳を覗き込みます。王子様が驚いて目を見開いているのを、無表情に見
つめました。

「話しただけじゃ、こうも臭わねぇ」

「!」

「・・・何した?」

目を丸くして魔狼を見上げる王子様に、ざわりと毛を逆立てながら魔狼が低く唸りました。
王子様の二の腕を突き破りそうになる爪を押さえて、もう一度訊ねます。

「何、したんだ」

「・・・・・・・・・・・・」

黙ったままの王子様に、業を煮やした魔狼が力を込めた瞬間、王子様は滲むような笑みを
浮かべました。

思わず動きを止めた魔狼に、また優しく笑って、魔狼の肩に頬を寄せます。

「私は、貴方の傍にいるのですから。それで良いじゃありませんか」

どことなくいつもとは様子の違う王子様を、複雑な顔で見下ろした魔狼は、溜息を吐いて
きつくその体を抱き締めました。


「・・・今度、おかしな匂いつけてきやがったら、マジで喰っちまうからな」


不愉快そうな声を聞いて、王子様は笑みを深めて瞼を閉じました。






*






「あ、団長。もう休暇終わりですか」

「――あぁ」

「そんな根を詰めなくっても、シャート殿下はきっと無事ですって。ちょっとは休んだら
 どーッスか」

「・・・そうだな」



「――え!?」
「ちょ、どうしたんだ団長?いつもなら殿下の話題出しただけですげー重い空気出すのに」
「し、知らないッスよ、団長の機微なんてわかんないッスよ」
「ななななんであんな微笑ってんですかあの人」
「お前聞けよ!」「カンベンしてくださいよ!」「ぼ、僕も嫌です!!」



「あ、レヴィンじゃん。どうよ、その後の捜索状況は」

「リューナーク殿下」

「訓練場で殿下はよしてくれよー。第一師団長―」

「・・・リューナーク第二師団長」

「同僚なんだからもう呼び捨てで良いのに・・・。で、なんか手がかりあった?」

汗を拭きながらレヴィンの横に腰掛けたリューナーク王子は、突き立てた剣の柄に腕をの
せて首を傾げました。

慌てて訓練場に駆け戻っていく部下達を見送っていたレヴィンは、ちらりとリューナーク
王子の亜麻色の頭に目を落として、遠くに見える大聖堂の尖塔に視線を移しました。





「―――いいえ、何も」







繰り返し繰り返し思い続けている。
たとえ近くにいなくても、心が離れることなどない。
遠く白波のように、思いは繰り返して。
お題使用サイト「負け戦」