影を追う者


 

「・・・・・・・スリュム?」


王子様が花に水をやっていると、庭のはずれを黒い影が横切りました。それは人型とも呼
べぬような姿をしていましたが、以前出会ったスリュムに間違いありません。

スリュムは王子様の呼びかけに一瞬動きを止めましたが、数度ゆらいでまたどこかへと進
み始めました。


「・・・・・・・・・。」


王子様は黙ってその姿を目で追うと、そっとじょうろを置いてスリュムの後を追いかけま
した。





小走りに近づく王子様に気付いたのかどうか、ほんの少しスピードを落としたスリュムの
横に並ぶと、王子様は薔薇色の瞳を細めながら周囲を見渡しました。スリュムの向かう先
は王子様が行ったことのない森の北側です。常に見る森とは異なる雰囲気に、王子様は興
味深げに首を巡らせました。そんな王子様を気にすることなく、スリュムはするする森を
抜けていきます。

「スリュム、どこまで行くのですか?」

王子様とスリュムは言葉を交わすことなく進んでいましたが、魔狼の家からだいぶ遠ざか
った所で王子様が尋ねました。あまり離れてしまっては帰りが遅くなってしまいます。

王子様の質問にふと立ち止まったスリュムは、腕のようなモノを王子様に伸ばしました。
不思議そうに王子様が覗き込むと、その手の平の部分からスルリと何かが浮き出てきまし
た。


「・・・・・柘榴?」


それは瑞々しい柘榴の実でした。暗い森の中でも、真紅の一粒一粒がてらてらと鈍く輝い
ています。王子様は首を傾げて柘榴を眺めていましたが、ためしに一粒つまんで食べてみ
ると、何とも言えず甘ずっぱい風味が口の中いっぱいに広がりました。

「美味しい・・・・」

ふわりと王子様が微笑むと、スリュムは片腕を伸ばして王子様の頬に触れました。少し目
を瞠った王子様がスリュムを見上げると、スリュムは王子様の瞳の縁をそっとなぞります。


何度もさわさわと触れ続けるスリュムに、王子様がくすぐったそうに真紅の目を細めた瞬
間、二人のすぐ傍の木がなぎ倒されました。


「―――ッな、」

驚いた王子様が振り向くと、中型の魔物2匹の争う姿が木々の隙間から伺えました。どち
らも凄まじい勢いで引き裂きあい、王子様たちの存在に気付いている様子はありません。

辺りに漂ってきた濃い血の匂いに王子様が微かに後退ると、するりと王子様の前にスリュム
が滑り込んできました。そしてその一瞬後、2匹の魔物のうちの1匹が王子様たちに向
かって弾き飛ばされて来ました。

「――――っ、」


それを見た王子様がスリュムに手を伸ばした瞬間、ぐにゃりとスリュムの体が広がって王
子様の体を飲み込みました。




*




「・・・・・・ここは・・・・」


ふと王子様が目を開くと、そこは不思議な薄紫色の空の中でした。浮いているような感覚
に体を強張らせましたが、水中を沈むようなスピードで下へ下へと落ちていきます。

過ぎ行く薄紫色の雲のなか、ときおり虹色の帯が漂っては燐光を放って消えてゆき、かと
思えば黄緑色の流星がいくすじも王子様の頭上を光線となって流れ落ちていきます。

王子様の周りでからかうようにちらつく桃色と水色の火花を眺めながら、王子様はこの世
のものとは思えない光景に心奪われていました。


王子様がぼんやりと淡い色と光の洪水に身をゆだねていると、落下のスピードが殊更ゆる
やかなものへと変わっていきました。王子様が身をひねって下を覗くと、王子様の落ちて
いく先がキラキラと光り輝いています。

「・・・鏡?」

目を凝らしてみると、それは空中に浮かぶ真円の物体でした。その滑らかな表面が薄紫の
雲や流星や火花をきらりと照り返しています。

景色が写り込んでいるので鏡だと思った王子様は、音も無くその上へ足を降ろしました。
そしてぐるりと周囲を見渡して、自分の思い違いに気づいたのでした。

「これは、水晶・・・・・、いえ、湖?」

王子様の影の中でだけ、写り込む景色が遮られて中を覗き見ることが出来たのです。厚み
など無いはずなのに、何故かその真円の中は深く深く広がっていました。しかも良く見て
みれば、まるで王子様の立つ面と鏡合わせになるように、漆黒の大樹がそびえ立っていま
す。それは水の通う艶やかな緑ではなく、黒曜石のように鋭角的な輝きを乱反射していま
した。静かな空間で耳を澄ませば、微かに漆黒の葉や幹のこすれあうシャラシャラという
音色が響いてきます。


その魔境の美しさを前にして、王子様はじっと大樹を見下ろしていました。





「―――?」

どれほどの時間魅入っていたのか、ふと王子様は曇りなく輝く黒の中に、ただ一点の白を
見つけました。それは王子様の足元からはるか彼方、大樹の群れる葉に見え隠れしていま
す。どうやら一本の枝に何かやわらかいものがたなびいているようです。
王子様はその異質さに眉をひそめて身を屈めました。そしてもっと近くで覗き込んだ時、
それが以前スリュムに贈った自分のハンカチだということに気が付いたのです。

驚いた王子様は思わず手を伸ばしました。とは言っても、水晶の境界に遮られて王子様の
手が入り込めるはずはありません。しかし、その足元の硬質な面に、つぷりと王子様の指
先はのめり込んだのでした。

「っ!!」

予想外の反応に王子様が手を引こうとするより速く、王子様の体は漆黒の煌めく水晶湖の
中へと落ちていきました。




*




「――――な、」

つぎに王子様が目を開いた時、王子様は見覚えのある花木の前で横たわっていました。上
体を起こして見回せば、そこは家の庭の片隅です。

一体何がどうなったのか、王子様がそのままで呆然としていると、王子様の真下に広がっ
ていた影がぐにゃりと歪んで伸び上がりました。

「・・・・・・スリュム・・・・・」

王子様が目を丸くして見上げると、何事もなかったかのようにスリュムがゆらゆらと揺れ
ています。

あの不思議な空間や漆黒の大樹、そして贈ったはずのハンカチのこと、スリュムに尋ねた
いことは山ほどありましたが、王子様は口を開いては閉じを繰り返し、しばらく逡巡した
後、ゆるく穏やかに微笑みました。

「・・・助けて下さってありがとうございました。お怪我はございませんか」

王子様がじっと見上げると、スリュムは体をくねらせて柘榴を四つ五つ落としました。そ
の突然の行動にちょっと目を瞠った王子様でしたが、ひとつを手に取ってまじまじと見つ
めていると、ふとスリュムの考えに思い至りました。

「もしかして、この柘榴がなっている場所に行こうとしていたのですか?」

そう王子様が尋ねても、スリュムが応えることはありません。ただゆらりゆらりと左右に
揺れているだけです。それでも王子様は嬉しそうに口元を綻ばせると、立ち上がってスリ
ュムの輪郭に触れました。

「今度こそ、私もご一緒させてくださいね」

王子様がにっこり笑うと、スリュムはまた体を揺らめかせました。









「・・・・ナニあいつら」

昼寝をしていた魔狼でしたが、濃い魔力を感じ起き上がって来てみれば、仲睦ましげに見
つめ合う二人の姿を発見。これ以上無いほど眉間に皺を寄せて凝視しますが、二人が魔狼に
注意をはらう様子はまったくありません。魔狼はしばらく扉の前で立ち尽くしていまし
たが、だらりと尻尾を垂らすと、静かに家の中へと戻っていきました。



その夜、機嫌良さそうに柘榴の出所を語る王子様の口を塞ぎ、魔狼が手痛い反撃を受けた
かどうかは、また別の話。











結局ハンカチはどうなったんだと。(禁句)